梅雨明け前から35度を超えたり、暑い日が続く。しかし不愉快なのはただ気候のせいではなく、ひとり原発問題や復興問題の故でもない。こうした危機的状況にさえ政治は先に進まない。目途も立たない。日本は下降線をたどり、このまま沈没するのではないか。そうした危機感がだんだん切迫してきた。誰かいい政治家いませんか、とよく聞かれたものだが、今はもう誰も何も言わない。諦念なのであろう。
先日、某国会議員の故夫人の送別会に出た。渋滞のせいで時刻を若干過ぎたので、式典はすでに始まったと憂えていたのだが、目前には何もなく、来た順に、並べて置いてある椅子に座らされただけだ。前方に広いスクリーンがあるが、その内側で何が行われているのか、アナウンスもないので、さっぱりわからない。葬儀だから本も何も持ってきてはいない。そのうちに隣席の男性がたまたま知り合いの某省局長であることが分かって雑談をすることになった。「前で何やってるんですか?」「分かりません」。結局ただ待つこと1時間、ようやくスクリーン向こうに案内されたら供花場で、亡夫人の遺影が一つ置いてあるだけだった。そして、そこもまた長蛇の列。列が滞る理由(椅子席で延々待たされていた理由も同じ)はすぐに分かった。出口に国会議員ら遺族が立ち、国会議員が一人一人の参列者に丁寧に挨拶をしていたからである。結局会場にいた時間1時間20分! こんなことなら1時間半後に来てもよかったのだ。式典は何もありません、喪主が一人一人に挨拶しますので三々五々にお出でください、そう案内に書いてあったら無駄で不安な時間を過ごすこともなかった。といより、であれば暑くて忙しい中、わざわざ帰宅して喪服に着替えてまで来る必要はなかったのだ。
葬儀というのは何のためにあるか。故人を偲び、参列者間で思い出を共有するためではないか。それが故人の、遺族の、そしてまた何らかの関係があって集まった人たちへの供養となるからではないか。故人の経歴やエピソードが紹介され、親しい人が弔辞を読み上げ、最後は喪主が挨拶する。その手順があって、故人は生き生きとするのではないか。だが参列者は故人について何も知らされないまま、ただ延々と待たされただけだ。その国会議員と話をするだけなら、別にそこに行かなくても、待たなくても出来たである。この、例を見ないほどの無神経さ、故人及び参列者への思いやりのなさ、傍若無人さは一体どこからくるのだろう。恐ろしくなってしまったのは私だけではあるまい。
この話をするとみな一様に驚き、政治家失格だと言うが、その以前に人間失格というべきであろう。先般はまた、こういうことがあった。話を少し脚色するが、例えば私の知人が、高級飲食店に私を招こうという際に、どなたか親しい国会議員も一緒にどうぞ、奥様もどうぞ、と言ったとする。そしてその国会議員は妻同伴で来て、一緒に御馳走になり、礼を言った。ここまではいい。しかしその後、妻が私の知人に対して直接、私には何の断りもなしに「とても美味しくて感動したから、友達を連れて行きたい。よろしく」と要望するというようなことがあっていいはずがない。この事態は夫にもそのうち明らかになったのだが、私への謝罪も妻への叱責もなかった。勘違いにもほどがあろうというものだ。
事さように、永田町にいると、どうやら勘違い病に染まってしまうようだ。被災地に行って暴言を繰り返した松本某大臣にも、だから私はそれほど驚きはしなかった。どんな立場に置かれても自らを客観的に見ることができ、決して勘違いしない人間というのは、もともと人間としての教養と品性が備わっているのである。私はその他、本を決して読まず、勉強しない国会議員も知っている。