新首相誕生、メディア報道に思うこと

 夏期休暇も終え、22日から元通りの生活に戻って、すでに1週間が経つ。この間、一時は8月解散総選挙に打って出ると霞ヶ関でまことにしやかに囁かれていた菅首相は、意外に?おとなしく退陣を表明、昨日代表選が行われた。5人ともに冴えない顔ぶれで(イギリスの先の首相選は3人みなばりっとした、生きのいい華のある40歳男性が並んでさすがイギリスだと思った。)、誰が選ばれてもなあという気の滅入る思いだったが、どうやらその中でも人間としては最もまともであるらしい野田氏が選出された。野田? 誰? 何か発言した?――国内的にも国際的にもまるで知られない人が、国政外交ともに然るべき経験を積むことなく、試練にさらされることなく、評価も経ずに一気に首相になれる。それだけ人材が欠如しているのが日本の現実である。

 振り返って、小泉さん以降5年の間に5人も総理が変わったのは、総理の資質がない人がなったからに外ならない。党代表の任期が2年と短いことを理由に挙げている人がいたが、各1年しかもっていないのだし、適任者であれば再任すればよいだけのことである。やはり前から言っているように小選挙区の弊害が大きいと思っている。現職に圧倒的に有利な制度の下有望な新人は出られず、後継となると即子どもなど身近な世襲で安易に決まる。これで政治家の資質が落ちないわけがない。さらに候補者が空白であれば、党主導で、地域に何の関係もないど素人をどんどん送り込んでいく。もともとただの数合わせでしかない、世間では普通の職にすらつけない議員が衆議院のかなりの割合を占めているのではないか、そんな危惧感が拭えない。

 もっとも資質が悪くなったのは政界には限らないから、根源に教育の問題があると思う。学校教育が、というより、人が人として生きるための姿勢をつける教育である。かつてはどこやらしらで普通に学んでこれたものが今はどこでも学べない。親の背中を見て育つ、と言ったって、親はおろおろしている。親も先生もバカにしている子どもが何をどう学んでも精神のないハウツー物でしかない。人が人として生きるためには譲れないことがある。嘘をついてはいけない、世間に恥ずかしいことをしてはいけない、一生懸命に生きる、人様のお役に立つように、といったことは人としての基本である。戦後武士道も躾も、すべての権威も失墜し、規律・責任のない勝手な自由ばかりが横行するようになった。人を見る時、まずは人としての品格を見るようにしている。知識はあっても品格のない人も多く、何の学問もなくても品格のある人も多い。

 さて、マスコミ。いい加減、小沢や鳩山を追うのはやめてほしい。知りたい国民がそれほどいるとはとうてい思えない。反小沢とか親小沢とか、あるいは党内力学にはまだあるのかもしれないが、それはあくまで党内の話であろう。なぜマスコミは、そうしたつまらないことや政局ばかり追うのか。解散はいつか、そればかり追っているのが日本の政治報道の特色だと外国人マスコミに聞いたことがある。政治家は国家観・国際感覚・経済感覚を持ち、政策で勝負すべき存在だ。100年後の国を描けねばならないのに、1年後すら読めていない。小さな会社の経営すら出来ないような人が国家の運営をしている危うさを、ここ何年も国民は抱いている。マスコミが賢くなって政策で語れるようになれば、政治家の質も上がらざるをえない。この2つは車の両輪で、共に手を携えて劣化してきたのが今の姿であろう。心あるマスコミ人はこれではいけないと思っているようだが、決して主流にはならない。視聴率を追って総白痴化してきたテレビと歩調を併せて新聞まで劣化する必要はない。マスコミや政治家が思うほど国民はバカではない。

 さて、児童虐待が頻発している。最近の一風変わったケースでは、里子を殺したとして声優の女性が逮捕された。実子がありながらあえて里子を貰って養育していたくらいだから、普通の人よりむしろ愛情のある人であったはずだ。今回初めて知ったのだが、実親に捨てられた里子は、里親に対して、その愛情を試す行動を取るのが普通らしく、非常に育てにくいそうである。あれっと思ったのはメディアの行きすぎた報道だ。裁判員制度になってから、裁判員に予断を抱かせるような報道を自粛するとの申し合わせが出来ていたはずである。事件発生は1年も前。証拠上難しい点がないはずはない。本人は否認。無罪かもしれない。それを、まさにあることないこと、人格的なバッシングも含めてやりたい放題、眉を顰めている。

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