今週初めのこと、某地方テレビ局の女性記者が事務所まで取材に来た。危険運転致死傷罪(刑法208条の2)を新設した際の自民党法務委員会での質問者が私だったのでとのこと。その地方では去年、以下のような事件があったらしい。
外国人労働者が無免許で飲酒運転をし、未成年者を轢き逃げ、3時間後に捕まったが酒気帯びであり(酒酔いのレベルには達せず)、警察は自動車運転過失致死罪(刑法211条2項)で送検をした。検察もそのまま起訴をし、先ほどあった求刑は懲役10年。判決はまもなく言い渡されるが不当だと、1人息子を失った両親が街頭署名を多数集め、そのテレビ局が連日?その事件を流しているとのことである。何が不当かといえば、この事件が危険運転致死にならないということが、だそうである。危険運転致死に当たれば、もちろん法定刑は高くなり、求刑も高くなる。しかし、である…。
罪刑法定主義をこの記者(及びテレビ局)は知らないのだ。その罪に問うためにはその条文の定める構成要件に当らなければならない。危険運転致死は故意犯の構成であり、それに問うためには酒酔いの状態であることなど、過失犯とは異なってハードルが高いのだ。なぜ危険運転致死罪で起訴しなかったか、それはそれだけの証拠がなかったからだ。そもそも警察段階でその罪名では立件できなかったのだから(検察官が起訴に当たって罪名を落とすことはよくあるが)、よほど証拠が揃わなかったのだ。しかし、記者は警察や検察官に非を求めているらしい。遺族の方はお気の毒であるが、それとこれとは別の話である。
記者いわく「二審でひっくり返りませんかね」!? まさか、「刑事訴訟は当事者主義だから、検察官の訴因に裁判所は拘束されるのですよ」。きょとん。戦後、刑事訴訟においても民事訴訟同様の当事者主義が採られ、原告(検察官)が設定した訴因(この件では「自動車運転過失致死」)に裁判所は拘束され、異なる罪名での認定はできないのである。もちろん殺人罪を傷害致死罪で認定するといったことはあるが、その場合は縮小認定であり、被告の防御権を侵害しないので良いのである。つまり、一審では自動車運転過失致死での有罪か無罪かの認定しかありえず、これに対して被告が控訴しても原告が控訴しても、二審の罪名もまた同じでしかない。審理の土俵はその罪名以下でしかないのである。
署名は、法律を改正して無免許を危険運転致死の構成要件に含めようということのようである。しかし免許の有無は行政上のことで道交法違反で処罰されるし、そもそも免許の有無と運転の技術レベルとは必ずしも一致するわけではない。そして同罪にはすでに未熟運転の態様も含めているから、実質的にそれで足りるのだ。「でも法律が変わったら、裁判も変わりませんか」!? まさか。「遡及処罰の禁止、事後法の禁止があるでしょ」、記者きょとん。「つまり、事件当時にはなかった法律を遡及して適用してたら罪刑法定主義は骨抜きじゃない、それは憲法にも書いてある基本の基本じゃないの」。記者は始終とんちんかん。要するに私に、そうですねその事案はひどいですね、危険運転致死を適用すべきですねと言ってもらいたかったのだと腹は読めたが、とんでもないことである。
どこも取材は無償である。こんな馬鹿者を相手に貴重な時間を割かれてはたまったものではない。論理どころか基本も知らなくて、煽情的かつ無責任に世論を盛り上げようという姿勢には百害こそあれ一利もない。新聞関係の記者の知り合いが多いのでこの件を伝えると、みな一様に「テレビ局は程度が悪い」。本当に、困ったものである。記者だから、取材で役に立つかもしれない、と思っているからこそみな時間を割くのである。無償で人の時間を割いてもらい話を聞けることを、自らの特権であるかのように勘違いするのだからよけいに始末に悪い。