ヴィクトリア朝時代の小説を読んで

ヴィクトリア女王の在位期間(1837?1901年)はイギリスの黄金期である。産業革命が興り、ロンドン地下鉄が1863年に開通、1882年には白熱電灯が点って、社会が大きな変革期を迎えた時代である。

文学も最盛期を迎えている。これまで私が読んだのは、チャールズ・ディッケンズ著「クリスマス・キャロル」、ジョージ・エリオット著「サイラス・マーナー」、「フロス河畔の水車小屋」、「ミドルマーチ」、シャーロット・ブロンテ著「ジェーン・エア」、エミリー・ブロンテ著「嵐が丘」、ジェーン・オースティン著「プライドと偏見」、トーマス・ハーディ著「ダーバービル家のテス」、オスカー・ワイルド著「ドリアン・グレイの肖像」など。中で個人的には、その思想といいバランス感覚といい、プロット構成の巧みさといい、怜悧な文体といい、エリオットが一番好きである。男性名を使っているが女性であり、当代随一の知識人であった。

日本でいえば江戸時代から明治時代にかけてのこの時代、裕福な人たちの輸送手段はまだ馬車や馬である。付き合う範囲は、家族、親類や友人、といっても階層が同じで気の合うごく少数者に限られている。キリスト教社会において、勤労は「失楽園」によって神から受けた罰であるから、もともと働くことは潔しとはされていないのだが、その例外の職業として聖職者・軍人がある。加えて法曹くらいで、医師・会計士・エンジニアが加わるのはこの時代後である。つまり上流階級の人たちには普通職業はなく、家事は使用人がやるから、彼らがすることといえば、限られた範囲の人たちを訪ね訪ねられ、食事や狩りやゲームなどを共にし、本を読み、また手紙を貰って読み、その返事を書いて出すことである。

そう、当たり前の話だが、この時代の通信手段といえば手紙しかなかった。訪問のために相手の都合を聞くにも手紙のやりとりが必要である。地方の住人が問題を起こし(他に娯楽がない社会では隣近所のスキャンダルは格好の話のネタである。)もはや住めなくなったとしたら、ロンドンに出るかあるいはまったく知らない所に行くか。それは根無し草になることなので大変なことではあるけれども、いざ実行しさえすれば、もう誰もその人の過去は知りようがなく、新しく人生を生きればよいのである。

わずか1世紀で社会はどれほど変わってしまったことだろう。新聞や週刊誌で情報はあっという間に知れ渡る。どころか今や急激にネット社会となり、世界の隅々の出来事が瞬時に世界中を駆け巡るようになった。プライバシーなどあろうことか、クレジットカードやネットを通して個人情報はダダ漏れでありそのことを真剣に考え出すと怖くなってしまうくらいだ。昨日、週刊新潮・文春に出た二人の自民党代議士の下ネタスキャンダルを見ながら、時代は便利になったようでかえって不自由になっていると改めて思わされた。もちろんこの二人の行為は恥ずべきことであり、許されるものではないのだけれども。

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