日本は法治国家なのですが──昨今の内閣に思うこと

憲法9条を解釈改憲して集団的自衛権の行使を認めるついて(集団的自衛権は国際法上認められているが憲法上行使できないという立場をこれまで採っている)、まずは内閣で閣議決定をするという。これを認めるということは、同盟国が攻撃された事態においてはそれを自国への攻撃と同視し、自衛隊も出せるということである。

意図するところは、日本を(普通の国と同様に?)戦争が出来る国にすることにあるようだが、いずれにしても手続きに大きな異議がある。法律の変更は国民の代表者である国会において議論を尽くしたうえでの法律改正が必要である。もちろん改正はせずとも裁判所が司法判断として解釈を加えることはよくある(これが判例である)。そしてその法律なり、執行にあたって行政府の出す政令や通達に憲法違反の疑義があれば、その判断をするのは裁判所であり、最終決定権は最高裁にある。それが憲法の定める三権分立であり司法権の優越なのである。

憲法の下位にある法律ですらそうなのに、国の最高規範である憲法の解釈だけは行政府の決定に委ねられてよい理があろうはずはない。もちろん憲法改正に拠らなければならないのである。憲法解釈についてはずっと内閣法制局がその荷を担ってきた。解釈改憲をするために安倍首相は長官に集団的自衛権推進派の人間を一本釣りで持ってきたが長期入院となり、どうやら事を急いで正面突破を試みるつもりではあるまいか。いつまで存続するのか分からない一内閣が決められるほど、憲法は軽いものではありえない。

法律改正には当然ながら国会での可決が必要であるが、実は長い慣行として、閣議決定をして国会に法案を提出する前に与党で事前審査を済ませていた。すなわち各部会にかけて総務会で通す、基本的に全員一致である。だからこそ党の全議員に党議拘束がかかるのだ(個人の主義信条に著しくかかる臓器移植など一部例外は設けたが)。その慣行すら打ち破り、まずは閣議決定をするから、必要な法律改正はその通りにやってくれでは、国会議員は何のために存在しているというのか。与党議員さえ黙ればあと、数の力で野党はどうとでもなる、ということなのだろうか。国権の最高機関はいうまでもなく国会であり(憲法41条)、改憲をいうのであればまずはもともとの憲法をきっちりと勉強し、理解しておくのは当然である。

一般に集団的自衛権の行使を認めるのは、同盟国アメリカを資するためだと考えられる。沖縄の基地問題にしても、特定秘密保護法についても同じ延長戦上にあるといえるだろう。ところが、でいながら年末には、アメリカの同意も得られぬままに靖国参拝を強行したのである。そして案の定アメリカからは「失望した」のコメント。これについて内閣補佐官が「こちらこそ失望した」なるお粗末なコメントを出したり、またお友達とされるNHK会長や経営委員会委員らが重ねてお粗末な言動をし、アメリカでなくても失望する事態がこのところ続く。個人的見解と言って撤回したりしているが、これら公的立場に個人的見解などありえない。

公人が常に公益を考えて行動をしなければならないのは当然のことである。韓国中国との間に要らぬ軋轢を生んで、一体誰が得をするというのだろう。彼らの国にいる日本人は安心して暮らせるだろうか、経済はどうなるのか。隣国とうまくやっていけない国が世界から尊敬されるだろうか。歴史を無視したような言動で世界から孤立することは、すなわち国益を甚だ害するのである。為政者のひとりよがりの考え方で、世界の孤児になっていった戦前の歴史を見るようで、昨今ニュースを見るのがこわい。

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