帝京大学の同僚が,私が昨年書いた死刑についてのホームページを参考にして,死刑存置か廃止かのディベートを学生にさせたという。ディベートはディスカッションとは違い,自分の意見はおいて割り当てられた立場に立つため,これまで当然に是と思っていたことの欠点も見えてきて,テーマを深めるのによいし,また弁論術を磨くにも最適な方法といわれている。ちなみにその結果は同僚いわく「存置派の不勉強もあり,廃止派の圧勝に終わった」そうである。
EU諸国は軒並み死刑を廃止し,今や先進国で残しているのはアメリカ(廃止した州も結構あるが)と日本だけだと言われる。これについて思うのは,死刑と宗教との関係である。キリスト教は罪を赦すので廃止に結びつきやすいが,イスラム教国で廃止した国がないのと同じく,因果応報の仏教国でも廃止されたとはあまり聞かない。しかし歴史をひもとくと,キリスト教国でもかつては死刑が大いに行われたのである。
フランス革命の際大いに活躍したギロチンは,ギロチン博士が「一瞬にして犯罪者の首を切り落とす機械」,つまり従前の残酷な各種死刑執行方法に比して格段に人道的な機械として発明したものとされる。最初の使用は1792年。そしてなんと1939年(昭和14年)に非公開とされるまでは広場で公開処刑が行われ,1981年の死刑廃止まではギロチン自体は厳然と存在したという。イギリスのヘンリー8世(6人の妻で名高い)は,2度目の妻アン・ブーリンを死刑にするに際し,特別の思し召しにより,フランスから槍の名手をよんで一度で首を落とせるようにしてやったそうだ。反対に下手な執行人を選んでわざと苦しませることもあり,ロンドン塔の中で斧を持った執行人が逃げ回る老女を追いかけるとの記述もあった。死刑が公開だったのは,国家の権威の発揚であるとともに,娯楽のない時代に庶民の楽しみでもあったからだろう。今や隔絶の観がある。
隣の韓国では死刑を存置し,憲法裁判所も合憲の判断を下しているが,すでに10年以上死刑の執行は停止されているので,アムネスティからは死刑廃止国として認定されている。韓国はアジアではフィリピンに次ぐキリスト教国であることと無縁ではないと考えている。しかし今後も死刑が停止されたままなのかは分からない。あの悲惨なセウォル号沈没事故である。船長ら4人は殺人罪で逮捕されたのは周知のとおりである。もちろん殺人の確定的故意はありえないので死んでも構わないという未必の故意である。日本では決してこのケースを殺人罪には問わないが(もちろんこんな無責任な船長らはいないので,机上の空論に終わるのは幸いである),韓国は当時休暇中だった本来の船長を業務上過失致死罪で逮捕し,船会社のオーナーにも逮捕状を出したという。
通常大きな事件においては逮捕前に検察と警察は協議をするので(刑事司法制度において両国に類似点は多い),検察は案の定船長らをそのまま殺人罪で起訴し,信じられない早さで今日第1回公判が開かれた(他の事件はそのために5月中に終えた,などは日本では考えられないことである)。弁護士はその職責として当然ながら殺人罪の未必の故意を否認し,今後裁判は月1回のペースで開かれるという。その結果,裁判所もそのまま殺人罪を認定するだろうか。おそらく求刑は死刑だろうから(じゃないと世論が収まらないので),その際裁判所も世論を考慮して死刑を言い渡すのだろうか。
法を法として厳密に適用するのが法治国家であり,世論や国民意識や政治状況を考慮するのは法治国家とはいえないのだが,さて死刑論の行方はどうなるのだろうか。今後最大級の関心を払って見ていきたいと思う。