平和憲法を捨て、なぜ「普通の国」になる必要がある?

東京新聞にドナルド・キーンさんの「私の下町日記」が掲載されるのを楽しみにしている。氏は平和主義者で、戦争は大嫌い。「源氏物語」に傾倒したのは、戦争がなくただひたすら美の追求がなされていることにあったという。

氏いわく、日本はこの60年間戦争でただの一人も死んでいない、何よりも素晴らしいことだ、これは平和憲法のお陰である。それを捨ててなぜ(集団的自衛権の行使を認める)「普通の国」にあえてなる必要があるだろう。そんなことをしなくても日本が世界に貢献できることはいくらでもある‥。

その通りなのである。国際的にどの国も究極目指すべきは平和である。無法な国があったとしても、それを解決すべきは外交であって武力ではないはずだ。日本の平和憲法は、どの国も目指すべき理想を体現したものであり、唯一の被爆国である日本は誇りをもってこれを推進すべきなのだ。その姿勢を、尊敬する国はあっても軽蔑する国はないと思う。よしんば軽蔑する国や人がいたとして、それが誤りであることは歴史が証明してくれるだろう。国が全力をもって目指すべきは平和であり、国民の安全なのである。

戦争が悲惨な現実でしかないことを、多大な不幸を生むことを、まるで知らない世代が為政者となり、国を誤った方向に進めているとしか思えない。振り返って帝国主義時代、軒並み植民地の時代に、日本がある意味やむをえずに起こしたのかもしれない大東亜戦争ですら、後世から見れば、国を誤った方向に進めたと非難されている。今平和憲法の下で、なぜ無理やり、ただ自分たちは正しいのだと、国を正しい方向に導いているのだと、為政者が他の聞く耳を持たずに勝手に進めてよいわけがない。

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