今日の内閣改造に関しては以前から様々な風評が入り乱れていたが、昨夜大体の確定稿が報道された。正直なところがっかりさせられたが、別にそれは今回に始まったことではない。
相変わらずの「お友達」内閣、また女性枠の拡大によって、本来適材適所であるべき大切な地位が、ただの腰かけやお飾りになっている感が強い。女性ゆえの優遇は逆差別であるし、もとより最重要の公職なので、性別にかかわらず能力・適性によるべきである。裁判官や官僚が女性である故に適性のないポストに割り当てられることは考えられないし(組織や仕事が動かなくなってしまう)、まして民間であればそんな悠長なお遊びをしていたら、厳しい競争に負けて企業そのものの存続が危うくなる。
逆に言うと、競争がなく、またお飾りでよいからこその人事だともいえよう。素人のような大臣ではもちろん国会答弁もできないので、官僚はそれこそつきっきりでお世話をしなければならない。はたで見ていて気の毒になったりするけれど、まあそれでも大人しく官僚に抵抗せず、要求した予算を取ってきてくれれば、官僚にとってはウェルカムの大臣だ。そうしたもちつもたれつの関係が成立して、「あの人は(うちの省庁のシンパであり)とても良い大臣だった」という評価になったりする。
俗に大臣病という。まさしくその通りで、当選何回かを重ねて大臣適齢期になっているのに閣僚になれないと、無能のレッテルを貼られ、選挙時にはその旨のネガティブキャンペーンを張られて落選につながったりする。そうした議員が山ほどいて、どこでもよいからとにかく大臣の肩書が欲しくて仕様がなく、そのニーズに応えるべく、内閣改造を頻繁に行う羽目になる。その点、安倍内閣はスタート時からただの一度も内閣改造を行わなず、1年8か月で記録だというのだから恐れ入る。留任が6人いるので、その分不満分子を抑えるためか(?)ポストを増やし、大臣の数は内閣法で定める最大限の18人となった。
当たり前のことだが、組織はみなどこも適材適所でなければならない。その意味では、どこの大臣でもやれるという議員はめったにいないし、1年位そこにいたからといって仕事に精通できようはずもない。イギリスでは、各所大臣は本当に適材適所の議員を置くので、10年位同じポストというのは珍しくないという。反対に一度も大臣になれない議員も珍しくはないということなのだが、そういう人たち(答弁をするフロントベンチに対して、バックベンチという)はその党にとって当選が難しい選挙区(地区毎に保守党か労働党かといった棲み分けがあるという。事情はアメリカも同様である)にやられて、党務に精を出すことになる。それだけ議員に区別を設けて当たり前なのは、未だに身分制度の厳しいイギリスだからと言われればその通りかもしれないが、見習う点は多々あると思われる。
これまでに何度も書いてきたと思うが、日本が小選挙区制度を倣ったのはイギリスである。そのイギリスでは選挙区の世襲を認めず、党がすべて割り振るのである。日本でもし世襲がなければ、内閣の顔ぶれを見ても分かるように、まずは議員になどなっていない人も多いであろう。世襲であるが故に適性能力など他において簡単に議員になり、議員から選ばれる大臣にもなれる。資格試験や採用試験のある他の公務員ではおよそありえないことである。
一人一人の適材適所よりもむしろ、選挙制度そのものを考えさせられる人事であった。党人事、ことに党の要の幹事長人事については下馬評が入り乱れたが、ふたを開けてみると候補に上がっていなかった谷垣法務大臣だった。総裁経験者がナンバー2の幹事長になる?でもって、まずは驚かされている。