この4日、武道館での帝京大学入学式に出席した。卒業式入学式参列が私の年中行事となって、もうはや11年が経つ。チアリーダー部の歓迎パフォーマンスに、近年は高校和太鼓部のパフォーマンスも加わり、教員らもそれらが楽しくて行っているとも聞くが、実際どちらも若さに溢れて素晴らしく、新入生も保護者もみな感激したのではないかと思う。人生の新たなスタートだ。新たな気持ちで日々を大事に過ごしてほしいと心より願う。
大学では刑法と刑事訴訟法を教えているが、これは弁護士としての自分のためでもある。傍ら家庭裁判所の調停委員をして8年になるが(この度、東京家事調停協会副会長に就任する)、これほど家事事件の勉強になる仕事はない。家事事件は弁護士としてよく扱うし、それは民事事件も同様だが、対して、刑事事件を扱うことはそれほどはない。検事時代に刑事事件は嫌というほど経験したが、辞めて18年。裁判員制度が始まったのはそれから10年以上経ってなので未経験だし、これに伴う公判前整理手続きも未経験だ。また併行して犯罪被害者参加制度その他の新制度が導入され、慣れ親しんでいた刑事司法制度も著しく趣きが変わってしまった。それら大改正について、弁護士会研修への参加はじめ、常に敏感でおられるのは、ほかでもない、常日頃、人に教えている故なのだ。
3月30日付け日経新聞に興味ある記事が掲載された。「AIで変わる大学教育」(国立情報学研究所教授新井紀子氏)。同研究所は、東大合格を目指すAI「東ロボくん」のプロジェクトを率いており、大学教育の前提として中学段階での読解力こそが必要だと主張している。最近、囲碁の世界トップのプロ棋士に人工知能(AI)が勝利したニュースが流れたが、AIが台頭する世界で失業を増やさず、役割分担をするには、人間はAIが不得意な分野の能力を高める必要がある。AIの苦手分野は、「論理と言語を高度に思考し表現する仕事」だから、人間に今後求められるのは、高い言語能力が基盤になる可能性が高い。しかし現実には、読解力は「伸ばす」以前に「その前提になる基礎がない」ことが明らかになったというのである。以下は公立中6校の回答分析である。
「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。オセアニアに広がっているのは( )である。Aヒンドウー教 Bキリスト教 Cイスラム教 D仏教」。答えは、いうまでもなくBである。本文などなくても、オセアニアがオーストラリアの地域であり、元イギリスの植民地であったことさえ知っていれば正解にたどり着くのは容易であり、ましてこの問題では本文で答えまで出している。馬鹿にするな、というほど簡単な問題だが、なんと正解率は53%!(D35%、C12%が続く。Aがゼロなのは、ヒンドウー教という言葉になじみがない故と思われる。)
いったい、どういうことか。新井氏いわく、「半分ほどの生徒は中学の教科書が読めていない。」「大学の主な問題は、学生が大学教育を受けられる状態で入ってきていないことにある。大学教育は学生が自分で教科書を読んで勉強できることが前提だが、そうなっていない。大学の入り口の状況を改善するには、中学卒業までに中学の教科書を読めるようにし、高校では普通の文章を書けるようにする必要がある。教科書も読めないのにプログラミング教育とかやっている場合ではない。」「中学校段階できちんと読むことができれば、いくらでも学力は伸ばせる。それが出来て初めて、大学での国際化やコミュニケーション力の強化といった取り組みが生きてくると思う」。
驚いて当然のような話なのだが、私自身、実はかなり納得させられた。大学で教えていて、学生に基礎的な国語力が欠如していることを日々実感しているからだ。別の見方をすれば、漢字が使えない。例えば、「せいとうぼうえいがみとめられれば、いほうせいがそきゃくされる」と聞いて「正当防衛が認められれば、違法性が阻却される」に、「こうりゅうをとる」が「勾留を取る」に、「えんざいでむざいとなり、しゃくほうされる」が「冤罪で無罪となり、釈放される」に頭の中で変換されなければ、それは日本語であって日本語ではないはずだ。私は歴史が好きなので歴史の話をよくするのだが、「奴隷」も「占領」も「無条件降伏」も「植民地化」も、もしかしたらこの言葉は漢字に変換できないのかも?と感じるようになって、いちいち板書するようになった。言葉の意味が分からなければ、文脈や内容以前の問題である。
国語力はすべての学力の基本である。英語はもちろん、算数でも理科でも音楽でも、あるいは体操ですらそれは変わらない。故に、私は学生たちに、「新聞を読んで本を読んで」、「字は自分で書くこと」、「体と頭は連動しているから、体で覚えないと決して身につかない」、「スポーツや楽器演奏が頭だけでは出来ないのと同じだよ」といつも言っている。最近読んだ「本物の英語力」の著者鳥飼玖美子氏は、スペルも英文も書いて覚えるほうが身につくと言っておられて、同感である。そのため、採点は面倒だが、試験はずっと論述式にしている。
上記記事では、一流大学生の読解力ですら、まだ大したレベルに達していないAIに負けるそうなので、教育全体の切実な問題だと思われる。もっと早い段階で、国語力が身につくようにならないものか。我々の時代と違って、家の中に新聞や本がない、食事中に大人と会話する習慣がないといった状況下で、子供に国語力をつけさせるには、国が本気で取り組む必要があるのではないか。