大型連休もほぼ終わり、憲法改正について思うこと

大型連休も明日を残すばかりとなった。あれやこれやの計画があったわけではないので、未達のものもない。この間尾道にも帰省できたし、いくつかの本をまとまって読んで勉強もできたし、ピアノも弾けたし(ベートーベンのソナタを中心)、まずもって良かったと思う。そして、明日は大相撲初日である。

3日、日経紙に載った3人の識者のうち、東大准教授マッケルウェイン・ケネス・盛氏のインタビュー記事が「目から鱗」だった。日本国憲法が他の国に比べてとても短いことは知っていたが、それと関連して、「法律で定める」とか「法律の定めるところにより」とする授権条項が多いことが特徴だと言う。例えば、最近選挙年齢を18歳以上とし、選挙区を変え議員定数も減らしたが、公職選挙法の改正で済んでいる。なぜならば、「両議院の定数は、法律でこれを定める」(43条2項)「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める」(44条2項)、「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(46条)となっているからである。もちろん、一院制にするとか任期を変更するとかいった場合には憲法改正が必要である。法律に授権して細々と定めていないが故に、日本国憲法は条文も103条と少なく、言葉も短く、要するにエッセンスだけなので、例えば、裁判員制度を導入した時ですら刑事訴訟法の改正とその旨の法律の制定で済んだのである。もし細々と憲法で定めているのであれば、その度ごとに改正は必要となる。

国会議員の3分の2以上のハードルは、誤解されているようだが、他の国でも普通である。法律改正が過半数なのだから、その上にある憲法が3分の2というのは素直な設定だ。ただこれをさらに国民投票にかけるというのは少なく、重いハードルといえばこちらのほうであろう。とはいえ過半数でよいのだから、もし本当に必要であればさして難しいこととは思えないが、これまでやってこなかったのは、上記の理由で、憲法改正が必要な状況がほぼなかった故と思われる。

もちろん、戦後70年、時代は大きく変わり、当時はなかった環境権、知る権利、プライバシー権など新しい権利・自由も登場してきている。その度ごとに、25条や13条などをいわば容れ物として使い、明文はないが解釈上憲法はそれも保障しているとして、なんとか間に合ってきたというのが現実である。憲法改正論で厄介なのは、それと9条が必ずやタイアップしていることだと思われる。改正=国民を戦争に巻き込む、という捉え方をされる限り、改正は絶対に駄目、になってしまう。

改正の是非を論議する際には、字面ではなく、何をどうすべきかという実態の論議をしなければ、膠着状態で何も進まないのではないだろうか。まして、GHQが押しつけたものだから駄目、自主憲法を作らなければというのでは、感情的に過ぎるようにも思われる。実際その下で、日本は平和と繁栄を享受してきたのだから、その発端はどうあれ、立派な憲法と言えるのではなかろうか。

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