この度二人区から一人区になった選挙区では、自民党の知人が何人か落選してしまった。声もかけられない。本人ばかりか秘書も失職、議員会館事務所も議員宿舎もすぐに引き払わねばならない。傍ら大臣・副大臣・政務官の行政職にある場合は内閣改造まではその地位にあるから行かねばならないが、迎える側もどれほど気まずいか知れない。ああ、気の毒だなと心から思う。勝者はすべてを手にし、敗者はすべてを失う。選挙を戦争に比すのも、むべなるかな。私の選挙はもう18年前になる。
さて、Brexitに伴う法的な疑問が解けず、気持ちの悪い状態が続いている。EU Referendum Act 2015 (今回の国民投票法を実施する法律)は15年末上下院を通過し、女王の裁可も得ている。キャンペーンの実施期間や政党毎に使える予算などの規定があり、有権者の過半数で決するとされるが、結果について法的拘束力をもたせる規定(例えば「同結果は議会を拘束する」など)が存在しない。しかるに議会は、遡る1972年、翌年のEEC(EUの前身)加盟に当たって、すべてのEU法はイギリスの国内法の上位にある、とする法律を作っており、今なおこれは効力を持っている。同法を廃止する権限はひとり作った議会にあり、この度議員がそれぞれの判断に従って、廃止(=国民投票結果の承認)を否決すれば、下院を解散して総選挙をしなければならないはずだ。そこで離脱派が過半数選ばれればよいが、でなければまた否決となり、となると離脱は出来ないことになる。
この問題についてネットではずいぶん騒がれていて、法律家としてはいちいちなるほどと思いながら読んでいるが、それほどは真剣に討議されていない印象も受ける。法治国としては正当な手続きほど大事なことはないと思うのだが、どうやら議会も政府も国民も、保守党の新党首選(=新首相)が先のように感じられる。本命である残留派、ベテランのメイ内務大臣に、議員歴わずか5年程度の離脱派レッドサム議員が絡み、後者は自分が3人の子持ちであり前者に子供がないことについて「故に、自分のほうが国の将来に責任をもてる」などとする浅はかな発言をして、批判されている。思慮分別のない人はどの国にもいるものだ。
イギリスは議会制民主主義発祥の国であり、膨大な植民地にあまねく、英米法というソフトパワーを根付かせた偉大な国である、とずっと思っていた。しかし、今回の事態で見方は変わった。振り返って、国民投票に付した時、政府の念頭にあったのはただ「残留」の結果だけだったのだろうと思う。政府も議会も多くは残留派であったから、ただ国民の不満のガス抜きのために国民投票を実施し、ほらやっぱりあなたたちも残留を選んだでしょう、と言いたいがためであったのだろう。だから法的拘束力についての規定など設ける必要もなかった。法的拘束力はないが、政府は国民の意思に従うということだろうが、であっても法的な手続きは踏んでほしい。リスボン条約50条は、離脱を通告するにはその国の「憲法の条件に従って」とある。イギリスは成文憲法のない珍しい国だが(サウジアラビアにもない)、だからといって法的な手続きをすっ飛ばしていいはずがない。
参院選の結果について、報道の主眼点が改憲勢力3分の2超えにあることについて、大きな違和感を覚える。改憲は、するかしないか、ではなく「どの条項をどう変えるか」が問題だ。報道も国民も冷静に対処してほしいと思う。イギリスの混迷は他山の石である。