目黒区の5歳女児が痛ましい虐待死を遂げてから、まださほど日が経っていないようなのに、またまた悲惨な虐待事件である。目黒の事件では両親が保護責任者遺棄致死罪で逮捕・起訴されたが(裁判員裁判に備えて公判前整理手続に付せられているため)未だ裁判が始まらない。始まればメディアが大々的に報道するであろう。
2つの事件はいずれも、父親による女児の、悲惨な身体的虐待だった。前は継父、今回は実父。実父がまさか、と思うかもしれないが、統計によると、児童虐待(身体的虐待や性的虐待だけではなく、心理的虐待やネグレクトも含む。)の加害者の半数超えは実母なのである。その次が実父で、全体の3分の1を占める。つまり実父母併せて8割を優に超えるのだ。目黒事件は香川から、今回は沖縄から引っ越したのは、いずれも父親が児童相談所の介入を嫌った故だろう。そして実際、虐待情報は新しい所には引き継がれなかった。
目黒の被害児童は3月に衰弱死したが、翌4月には新入生だった。学校に行けば虐待の兆候は明るみになるので、もう少し大きければこんな悲惨な結末にはならなかったのにと思っていた(父親は、そうなる前に、目障りな子の始末をつけようと考えていたようにも思われる)。故に、今回のは衝撃的だった。子供は学校に行っている。おまけに、小学3年の11月、学校のいじめアンケートに「父から暴力を受けている」と、勇を奮って書きさえした(このアンケートには、「秘密を守りますので正直に答えてください」と記されてあった)。それを受けて教師が被害状況を聞き取りし、児童相談所が一時保護をしたが、12月末には親族宅での生活を条件に保護を解除した。
ところが、だ。父親は翌1月(ちょうど1年前)、母親と共に学校を訪れ、「暴力は振るっていない」「訴訟を起こす」などと激しく抗議した。その威圧的な態度に恐怖を感じた学校は、恫喝に屈する形で、アンケートの内容を口頭で伝えた。「実物を見せろ」と要求する父親。そうしたらなんと、「個人情報なので本人の同意が必要です」!(なんとまあ、恐ろしいまでのマニュアルだ) 父親は娘に同意書を書かせる(一体どれほどの暴力が振るわれ、娘は死ぬほど怖い目をしたことか。学校にもすべての大人にも絶望したことだろう)。教育委員会がアンケートのコピーを渡した3日後、父親は娘を転校させた。3月には親族宅から自宅に戻り、今年1月、始業式から学校を欠席したが(母親の実家のある沖縄にいると言ったのは嘘である)、児童相談所が長期欠席を知ったのはようやく21日。24日、浴室での死亡が発見されたときにはすでに死後硬直が始まっていたという。躾だと称する父親はまったく反省の色を見せないまま、傷害容疑で逮捕された。死体解剖でも死因がはっきり分からなかったというが、父親の続く暴力(最後は浴室で冷水シャワーを浴びせるなどした)がなければ死ぬことはなかった以上、傷害致死罪にすべきである。
新しい小学校でのアンケートに娘は、「いじめはない」と2回共、嘘を書いた。本当のことを書けば、学校からまた漏らされ、父親にさらに暴力を振るわれることが十分に分かっていたからだ。先生も誰も、自分を守ってはくれない。父親より10歳下の母親も家庭内暴力を受けていて、夫が怖いので、娘を助けようとはしない。学校・教育委員会・児童相談所の連携がない。警察に通報することだって出来たはずだが、学校は、面倒なことに巻き込まれたくないという思いだけだったのだろう。一般的に言って、校長は定年まであと少し、それまでただひたすらに問題が起きないことだけを祈るようである。父親と親族宛に、情報開示や信頼する学校運営を誓う念書を出してさえいた。
全国210の児童相談所に持ち込まれる児童虐待相談件数は年々恐ろしく増えていて、平成29年度は13万件を超えた(心理的虐待が一番多く、半数近い)。平成2年時にはわずか1100件だったのが同10年には7000件、同22年には4万件を超え、この調子だと今後もどんどん増え続けるのだろう。対して、児童相談所の児童福祉司の数は、平成29年3253人。2022年までに2000人増員させるとはいえ、あまりに少なすぎるだろう。もちろん、対応する職員数が少ないことをもって、この不幸な死を招いた理由とすることはできない。
親になるのには試験も資格も不要である。赤ん坊を捨てる者さえいるのだから、まっとうに育てない親がいるのは必然である。よく言われることだが、「虐待は連鎖する」。虐待を受け、愛されずに育った者は、愛し方が分からない。暴力を受けて嫌な思いをしたのに、自分もまた暴力を振るう。そのことに悩み助けを求める者であればまだ救いようがあるが、疑問も持たない者は、本来親になるべきではなかったのだ。だが、親になってしまった以上、社会全体でその子供の養育を担っていかなければならないであろう。
子供は親を選べない。その親に、養育されるどころか毎日暴力を振るわれ、そして死んでいくのは、運命というにはあまりにむごすぎる。大人同士の事件ならば、被害者にも相手と関わった意思があり、犯行を誘発した落ち度だってあるかもしれない(通り魔事件は別)。対して、生殺与奪の権限を持つ親による子供の虐待死は、最も罪が重い。親子無理心中の場合、普通の殺人より刑責が軽いのは、子供を殺すのは自らを殺すことに等しいと考えるからだが、キリスト教では、子供は親とは別人格で、神から保護を信託されたのだから、子殺しは最も重い殺人だと考える。日本も児童虐待にはもっと厳しく対処すべきだし、不幸な結果になる前に、近隣も一緒になって、子供を助けるべく取り組まなければならない、と改めて思う。