検事時代,強姦事件を数多く扱った。強姦と一口に言うが,その内容は実に様々である。
顔見知りの間でのあまりぱっとしない告訴事件から,凶器を準備して家に押し入っての連続強姦魔まで。
強姦に対して世間には大きな誤解がある。性欲が溢れる若さなのに恋人がいないから,あるいはお金がないから風俗に行けなくて……代償行為として強姦に走ったのだと。
誤りである。スリがお金のためというより,たまらぬ快感でスリを続けるように,彼らは,脅迫・暴行で相手を屈服させて性欲を遂げることにこそ快感を感じるのである。だから,たとえ恋人(妻)がいても,金があっても,若くなくても(扱った連続強姦魔の中には50歳近いのもいた)捕まるまで強姦を続ける。そして出所後,繰り返す。
小児性愛が治らないことは最近ようやく認知されてきたが,ことは他の異常性欲者もほぼ同じである。誰が死体に性欲を感じよう。だが,それを越え,殺して犯すことにこそ無上の快感を覚える鬼畜もいる。大久保清がそうだった。
山口県光市の事件は,少年事件(犯時18歳)であることに目を奪われ,犯罪を客観的に見る視点が欠落していたと思われる。
見ず知らずの女性を,準備した凶器で殺し,その上で犯す。快感は極限に達し,異様な興奮状態にあったはずだ。故にこそ,傍らの赤ん坊を叩きつけて殺し,2人の遺体を押入れに放り込んだ。財布を盗み,中にあった地域振興券を見せびらかし,ゲームセンターで遊んだ。この一連の行為は単に,鬼畜の犯行であり,反省の色がないだけではない。本質は,危険極まりない異常性欲者による犯行。前科はなくて当然,まだ18歳なのだから。
性欲は,去勢しないかぎり,消えない。出所すれば必ずや,再犯に走るだろう。この度もし最高裁が検察官の上告を棄却し,原審の無期懲役を確定させておれば,25歳の服役者は40歳頃には仮釈放される。誰が新たな被害者になるか。いずれにしてもその責任は誰も取らない。これが法治国家だろうか。
少年への死刑基準としてよく引き合いに出される永山事件は連続射殺事件である。だから,その最高裁判決で示された「被害者の数」4名は基準とはならない。
「理念」としては当然,犯罪者の更生をいうべきである。だが,医療にも個人の体質や素因によって不治があるのと同様,たまたま置かれた環境がもたらした偶発的な犯行と違い,人格そのものの発露といえる場合,更生は難しい。
常習性の非常に強い犯罪類型は,大きく分けて,4つ。盗癖,粗暴癖,薬物嗜癖,そして性犯罪(異常性欲)。
「なくて7癖」というように,誰にでも癖がある。酒癖,女癖……。それがたまたま犯罪性向に結びつかなければ癖で終わるが,中には犯罪となる癖もある。それでも被害が財産で済めば回復が可能だが,人の命は違う。最愛の奥さんと子どもを非道に奪われたご主人その他遺族の方々は,人生を根こそぎ奪われたのである。
少年だから寛刑にと主張する人は,自分がもし遺族であったとしても,同じことを言うのだろうか。想像力の欠如が死刑廃止や少年保護を唱えさせているのでなければ,幸いである。