「女帝エカチェリーナ」を読んで

コロナ自粛以降、夜も週末もたいてい空いているので、よく読書をしている。たまたま「イヴァン雷帝」(妻は次々と8人いたとか。拷問や残虐行為で悪名高い皇帝であり、最後は自分の息子まで殺してしまった)を読み、続いて同じ著者(アンリ・トロワイヤ)による「女帝エカチェリーナ」を読んだ。彼女には以前から大変関心がある。なぜ、ロシアの血が一滴も入っていない余所者(ドイツ人)がロマノフ王朝の皇帝になれたのか? あちこちで聞いても誰も答えてくれず、そのままになっていた…。

1729年生まれのゾフィはそれなりの公家の娘である。母親の亡兄がロシアのエリザヴェータ女帝(ピョートル大帝の次女)の婚約者であった縁で、独身で子供のいない女帝が、後継者として立てた甥(大帝の長女アンナの遺児。父親はドイツ人)ピョートルの嫁にと白羽の矢が立ったのだ。わずか14歳。ゾフィは、冴えない「はとこ」ピョートルを知っていたが、ロシアの皇妃になりたい一心で、自ら進んで赴き、ロシア式にエカチェリーナと改名、ロシア語を習い、父親の反対を押し切ってロシア正教に改宗する。翌年結婚。一つ上の夫は、兵隊ごっこが趣味で、プロシアのフリードリヒ大王に心酔しており、全くそりが合わないが、姑エリザヴェータ女帝の勧めもあって愛人を作り、結婚してようやく9年後に息子を産む(後のパーヴェル1世)。この子はすぐに姑に取り上げられ、終生母子は疎遠である。エリザヴェータが1762年、52歳で亡くなったときエカチェリーナは33歳。ピョートルが3世として即位する。根っからのドイツ人でロシアを侮蔑する夫は、軍隊を崇拝するプロシア式に変え、勝利を収めていた対プロシア戦を終結させてしまう。

軍や聖職者の多大の不満をバックに、彼女は、3人目の愛人(軍人)らを味方につけて軍によるクーデターを決行。哀れな夫は、愛人と共にドイツに隠棲することを熱望したが、彼女の愛人らによって殺害される(彼女自身が指示をしたわけではないだろうが、黙認し、かつ安堵したことは確かであろう。夫殺しの汚名はついて回る)。8歳の息子を帝位につけて自分は摂政…であれば順当だが、そんなつもりはまるでない。はなから自分が帝位につき、政治を執り行うつもりなのだ。息子を結婚させて嫡男アレクサンドルが誕生したときは、自分がされたのと同様、すぐに取り上げて自ら養育に当たる。長身で美男のアレクサンドル(1世)は彼女の大のお気に入り。将来ナポレオンをも翻弄することになるこの孫に直接帝位を継がせる意図だったが…実際は、彼女が1796年に67歳で亡くなったとき、跡を継いだのは最後まで仲が悪かった息子であった。息子は母親のやったことを全否定し、女性は帝位を継げないよう法律を作る。この息子は4年後、やはり軍のクーデターで殺害される。

話は変わるが、フランスには女王がいない。フランク人のサリカ法が女に不動産所有を認めない故である(周辺の〇〇公家では認めていたりするが)。スペインには偉大なイザベラ女王、オーストリアには偉大なマリア・テレジア女帝、またイギリスにもエリザベス1世やヴィクトリア女王がいるのだが(今もエリザベス2世である)。彼女たちは例外なく、王家の正統な跡取り娘である。マリア・テレジアはエカチェリーナと同時代人であり(テレジアが12歳上)、エカチェリーナのことは、王位簒奪者、夫殺し、淫乱女(生涯に知られているだけで12人の愛人がいた。中でポチョムキンとは秘密結婚をしていた言われる)…と大変嫌悪していたそうである。むべなるかな。であるのに、その長男ヨーゼフ2世はエカチェリーナと大変親しく、フリードリヒ大王と三者してポーランド分割に手を染め、マリア・テレジアを大いに悲しませている。

エカチェリーナは「回想録」を残している。啓蒙専制君主としての自分に大変誇りがあり(自分をヨーロッパ最高の知識人だと思っていたようだ)、ヴォルテール、グリム(グリム兄弟とは違う)、ディドロ(百科事典で有名)らヨーロッパ中で知られる知識人らと頻繁に文通を重ねていた。もちろん外交官らが詳しくその行状を書き留め本国に送ったりしているので、厖大なノンフィクションが作られるベースが存在するのである。これに限らず、歴史書を読むとき、外交官たちの記述はいつも大変参考になる。文通相手らは、エカチェリーナの歓心を買うためにか歯の浮くようなお世辞を並べ立てているが、実際のところはどうだったのだろうか。

外交官ハリスいわく、「彼女の宮廷は、次第に頽廃と背徳の舞台と化してしまった。…ポチョムキン公は彼女を完全に支配している。…」性格については「女帝は男のような精神、計画をあくまでも実行する力、とくに大胆に行動するという能力を持っておられるようだ。しかし深く物事を考えるとか、繁栄の中で節度を守るとか、的確に事態を判断するというようなもっと男性的な長所には欠けている。一方で、よく女性に見られる性格の弱さは、彼女にはきわめてはっきりと現れている。追従を好む人の常として自惚れ屋であり、聞くには不快だが為になる忠告には耳を貸さず、官能の喜びを求めてどんな身分の者でも恥じ入りそうな放蕩に身をもちくずす。」ヴェルサイユ政府に派遣されたコルブロンはもっと辛辣である。「この国はどのように治められているのか、どのように支えられているのか、とたずねる方もあろう。偶然により治められ、自然の平衡によって支えられていると、わたしはお答えしよう。それは巨大な塊がみずからの重みのために堅牢になって、あらゆる攻撃に耐え、腐敗と老化の絶えざる浸蝕だけにさらされているのにも似ている。」(「女帝エカテリーナ(下)」工藤庸子訳 中央文庫80?81頁)。

67歳で突然死ぬまで引きも切らず傍らに侍らせていた、美貌で若い愛人たち(あとの愛人たちはたいていポチョムキンが選んだ男である)に、肩書とお金を惜しみなく与える。宮殿や農奴数千人付きの土地も与える。啓蒙思想の一環として農奴解放を考えたこともあったようだが、貴族らの支持なくして帝位はなく、貴族らの大反対にあって、すぐに引っ込める。農奴は土地についているだけで、精神的には自由である??(なんとまあ、都合のよい為政者の論理であろう)。悲惨な状態にある農奴の解放は、結局彼女の曽孫アレクサンドル2世の時代にようやく手をつけられることになる。

実はロシアの女帝は、エカチェリーナが初めてではない。姑エリザヴェータはピョートル大帝の娘だから同列ではないにしても、エカチェリーナ1世とは、誰あろう、ピョートル大帝の未亡人である(エリザヴェータの母)。この人は、リヴォニアという所の農民の娘だったらしい(ピョートル大帝は最初の妻を修道院に押しやり、間に生まれた長男アレクセイを拷問死に追い込んだ)。もちろんロマノフ王朝の血など、ゼロであり,あえて言うならば貴族の支持、民衆の支持でしかないのだろう。たいていのロシア人があまり勉強せず、知性がどうやら欠けていたところにもって、フランス語やドイツ語が出来、古典も読んで当時最も進んでいる啓蒙思想にも染まり、個人的な交遊も深い女帝は、他の多くの欠点を補ってもなお、巨大な未開国であるロシアを、ヨーロッパ列強やトルコに対峙して統治するのに相応しいと思われていたのではないだろうか。彼女自身はロシアないしロマノフと無関係であったが、帝位はその子孫に引き継がれていく。

そもそもロマノフ王朝自体が以前より続いている王朝ではない。繋がりとしては、イヴァン雷帝の最初の妻が名門貴族ロマノフ家の出身だったということくらいである。イギリスやフランスその他の国では、後継者が途切れた場合、血筋を直近に遡り(イギリスのスチュアート朝がアン女王で途切れたときはもう少し遡り、ドイツから後継者を迎えてハノーバー朝としたが、それはカトリックを避けて新教徒に限った故である)、結局のところ、最初の祖先に戻るのだが、それとは違うのだ。もちろん中国のように、国をうまく治められない場合は天が覆して全く別の王朝にするという天治主義とも異なるが、今のロシアが人治主義と考えられているのに、あるいは類似するところがあるのかもしれない。日本の天皇制は連綿と続き、最も長い歴史を誇っているが故に尊敬もされているのだが、いつまで続くかとなると、かなり怪しいのは残念なことである。

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