長い間書いてないような気がしていたら,なんと1ヶ月半も経っている(!) 毎日なんやかやと私の周辺でもいろいろと起こる。
目を他に向けると,日本でも世界でも,様々な事件が起こり,何がなにやら分からないくらいである。ただ残念ながら,あまりいいニュースは聞かない。
とくに深刻なのが,いじめ問題である。
いじめは古今東西いつでもどこでも必ずや起こるし,私も小学生の頃,ずいぶんといじめられた(今の私からは信じられないだろうけれど?!)。いじめられていることは子どもなりに恥なので,親にも言えない。ただ,その頃はまだのどかで,助けてくれる子や仲良しも結構いて,孤立することはなかったし,その頃のいじめといえばきっとその程度のものであったろうと思う。私は私で,他にいじめられている子がいれば庇っていたし,まだ貧しかったけれども,いや貧しかったからこそか,互いに助け合う精神に溢れていて,良き時代であった。
大人になって思うのだが,いじめられる子もまた,たいそう不幸である。家庭や学校で満たされない思いを,自分より弱い者にぶつけることで晴らそうとする。親が不十分なところは,教師や周りの大人が庇ってやらないといけないのだが,今はみな自分のことに精一杯で,人のことなど構えないのだろう。構うと,何か文句を言われるかもしれず,こわくもあるし。物は溢れて豊かな時代であるというのに,実に悲しいことである。
今回ことにひどいと思ったのは,教師や校長ら学校関係者に対するマスコミの集団いじめである。「校長がようやくいじめを認めました!」とさも得意げに,その土下座している映像を流されて,今後この学校は教育できるのだろうか,と暗澹たる思いになったのは私だけではないはずだ。
教師は,校長や教育委員会など周りに管理されて時間に追われ,肝心の子どもに向かい合っている余裕がないのが実態である。有為な若者こそ教師になってほしいのだが,こんなことではますますなり手がいなくなるのではないか。
教育崩壊とともに,いじめは陰湿の度を増し,いじめを苦にしての連鎖的自殺が起こっている。死ねば誰かが悲しむ。自分ひとりの命ではない。あるいは,今は辛いけれど,そのうちきっと楽しいことがある。そう思えさえすれば人は死ななくて済むはずなのに。昨今は身近で祖父母の死を看取ることもなく,リセットボタンで死人が容易に生き返るバーチャルな時代になっていることも大きな要因ではあるのだろうが。
合呼応して,陰惨な児童虐待が起こっている。自殺も児童虐待も,形こそ違うけれども,共通するのは命の軽視である。人の最大の財産はその生命であり,それをすら軽視するところにすべての政策も文化も不毛である。
安倍総裁の下,党紀委員会の委員になり,復党問題を扱うことになった。