1月半ば,寒さ本番。山上起訴の行方…

昨年末にブログに書いたが,ウクライナ戦争のせいで賀状を書く気が全くしなかった。今年2日に東京に戻ってきて翌3日以降鋭意書き,6日以降寒中見舞いに切り替えたが,いくら表も裏も手書きとはいえ万年筆は書き慣れているので,さほど時間はかからないはずだった。だが意外にかかって日に20枚がやっと。相手の顔を浮かべて文面を考えていたからだ。表裏共に印刷だけの方には書かず,丁寧な添え書きがあってももはや顔が浮かばない方にも書かなかった。以後年賀打ち止めの文面も毎年増えるし,そのうち本当に厳選されてくるだろう。いいことである。

さて昨今の読書の中で,とくに印象に残った1冊を挙げれば,『仮釈放』(吉村昭著)だろう。著者は『破獄』や『ポーツマスの旗』など秀逸なノンフィクションで著明だが,これはノンフィクション風でいながら純然フィクションであるらしい。主人公は真面目な教員であったが,不義をした妻を殺して無期懲役刑を受けて服役,15年で仮釈放になるが…という話である(結末はあまりに衝撃的である)。明治40年制定の刑法は有期懲役刑を「15年以下」(加重して20年以下)としていたが,平成16年改正で「20年以下」(同30年以下)に引き上げた。同改正は全体に「刑法の重罰化」と言われ,例えば殺人(199条)の法定刑下限は「3年以下の懲役」から「5年以下の懲役」に引き上げられた。この流れとして刑罰は重くなり,無期懲役の仮釈放はこの小説どおり(吉村氏の小説はいつもよく調べられている)服役後20年未満でありえたわけだが,今は27?8年服役後になっている。

妻殺しだけでは無期懲役になどなるはずはないが(しかも妻の落ち度が明白だ),主人公は,自分の留守中に知り合いの男を引き込んで房事に及んでいた妻をその最中に刺し殺しただけではなく,一緒に殺すつもりだった男が逃げ出したのを追ってその自宅に火をつけ,2階にいたその母親を焼死させたという,現住建造物等放火及び別の殺人でも起訴されたわけである。放火は重いので,まあこれなら無期懲役にもなるかもしれない。死刑に次ぐ無期懲役になるような犯罪といえば途方もなく悪いことをしたのに違いないのだが,主人公は自分のやったことを一切悔いていない。相手の男自身ならばいざ知らず,その母親を殺したことについても,あんな男を産み育てたのだから死んで当然くらいに思っているのだ。弁護人としては必ずや被告人に反省の言葉を言わせたい。大罪を犯した以上,反省をして更生しなければ,裁判所も世間も納得させられない。無期懲役であれば仮釈放があり,いずれ社会に戻り社会で受け容れてもらわねばならないのである。

この小説に出てくる保護司の方々は本当に立派な方達である。真面目に服役し再び社会復帰をしようとする主人公のために,それこそ全身全霊で取り組んでくれるのだが,良かれと思ってしたことが結局新たな悲劇を生むことになる。それをもたらしたのは,「反省しているのだから許されるべき」と思う周りの人と,「自分のやったことは間違っていない」と心の中で信じている(口に出して言うことはできない)本人との格差である。保護司はじめ周囲の方々がどれほどがっかりきただろうと想像するだけで胸の痛む小説なのであるが,本当には反省していない被告人に口先だけの言葉を口にさせる空しさもまた,裁判ではありがちなのである。

今回山上の起訴報道で,この小説をまざまざと思い出した。彼に安倍氏殺害の後悔など,ありはしない。自分の家族及び自分の人生をずたずたにした統一教会憎しの一念が,それと深い関係にあった安倍氏殺害の動機となった。別に安倍氏でなくても統一教会関係者で良かったはずだが,なぜだかいつからか,目立つ安倍氏が標的に選ばれたのだ。死刑などはなから覚悟であろう。自家製銃を作り,長野遊説の予定が急遽地元奈良での遊説となった安倍氏を狙う。またとない好機に,通行人を巻き添えにすることもなく,成功裏に犯行を終えた…。裁判員裁判となるため,起訴後公判前整理手続きを踏むので,実際に法廷に彼が登場するのは1年半後くらいにはなるだろう。どれだけ多くの人が法廷傍聴に殺到することであろう。

法治国家である。いかなる動機があろうとも殺害は正当化されない。犯罪不成立になるのは正当防衛か責任無能力の時のみ。どちらもない。そもそも精神病などもなく了解可能な犯行であるため,鑑定留置の必要もなかったと思われるが,重大な犯罪であるため念を入れたのであろう(それにしても,半年近くか?長すぎたが)。動機も犯行も争わないだろうから,あとは裁判員たちがこの犯行をどう評価するか。検察の求刑はどうするのだろうか。難しいところであろう。政治テロであれば被害者1人でも死刑求刑でいいのだが(かつて長崎市長が暴力団員に銃撃されて死亡した事件では一審死刑,二審以下無期懲役であった),政治目的のテロではないし,選挙の遊説中とはいえそれはたまたまであり民主主義の破壊を狙ったわけでもない。単純に安倍氏狙いであり,その原因となった統一教会問題をどう評価するかについては,裁判員らの宗教観人生観も大いに問われるところであろう。

止まれ,この犯行によって統一教会問題が炙り出されることになったのは,犯人が狙っていたことではないし,結果論に過ぎない。ましてや立法の手当てがされたことについても結果論であって,犯行の評価にそれを盛り込むことは間違った方向となろう。裁判官においてはそこはきちんと議論を進めて行って頂きたいと思うところである。

カテゴリー: 最近思うこと パーマリンク