先日,和解のために裁判所の待合室にいたときのことだ。
がさがさと,男女3人が入ってきた。聞くつもりはないが,待合室は狭いし,年配の女性が興奮して大声を出すので,聞くとはなしに聞いてしまった。彼女は当事者。裁判官から先ほど提示された和解案がよほど気にくわなかったようだ。
「裁判官は〇〇(相手方)がどれほど悪い奴か,全然分かってないんですよ」
男女各一名は何も言わない。相づちすら打たない。であるからかどうか,女性はどんどん激してくる。
「〇〇は他に〇〇や〇〇もやってる(本当であるとすれば犯罪にあたることをいくつか挙げた)」
「まあまあ。しかしそれは本件の審理の対象とはなっていないですから」
さすがに弁護士。ここは冷静に戒めた。
紛争は同族会社の内紛と見た。相手方と争う株式の額は億に上るようだ。となると弁護士報酬も桁違いであろう(だから羨ましいと思ったわけではない。念のため)。
このエピソードには依頼者対策の難しさが凝縮されていると思う。
法律の素人と玄人の違いと言っていいかもしれない。裁判官が認定する事実は,法に基づき,またその裁判に提出された証拠に基づき,証拠にしか基づけないものである。当然,真実であるとは限らないし,ましてや一方当事者が真実であると確信している通りに認定してくれるはずはない。人はよほどの聖人以外は己を正当化するものだし,記憶は自分の都合のよいように変わっていくものである。
だからあなたの思い通りには裁判所は認定しませんよ,とは言えない。お金を払うのは依頼者だ。その人にいかに満足してもらうか。法と正義に基づいて最大限の努力をし,玄人が評価する結果を出したとしても,同じように依頼者が評価してくれるとは限らない。本筋とは違うところで妙なこだわりがあったりもする。誰が見ても完璧な奥さんや旦那さんが当事者にとって満足とは限らないようなものだ(?)。極端に言えば,大きなミスをしても,それと分からず満足してくれることもあるだろう。医者もそうである。手術は失敗でも先生はよくやってくれたと思えば患者も遺族も不満はないが,最大限の説明をし施術をしても訴えられることもある。
依頼者も様々だ。心情を思いやり,その個性・ニーズを考慮すること。それが今後の大きな課題であると思わされたエピソードであった。
あと弁護士業で難しいのはお金の取り方。
今ではそう間違えなくなったと思うが,振り返って,取りすぎたと思うのもあれば,それ以上に,取らなさすぎたものがある。取れるときには遠慮なく取っておかなければ,ボランティアでやろうと思うときに動けない。訴額で事件を選んではいけない。この案件でいくら,ではなく,1年で均していくら,あるいは2年でいくらくらいの感覚でやるべきこともよく分かってきた。