派閥次々と解散! 最近読んだ本のこと

 前に書いたが、政治資金規正法違反捜査自体は尻すぼみもいいところだった。が、その副産物というのだろうか、岸田総理が自分の出身派閥である宏池会を解散することにし(しかいすでに脱退した方がなぜ中小企業のオーナーであるかのように解散出来るのか不可思議だった…)、違反の主体となったいわゆる安倍派も解散決議をし、二階派なども続き、残るは茂木派と麻生派だけとなった。だがそこも離脱者が何人か出ていて、様子はこれからうんと変わっていくのだろうと思われる。とはいえ、派閥というからおどろおどろしいが、人間社会だからグループは当然できるだろう。

 そもそも犯罪をするために作った集団ではなく、その名の下に得た政治資金の運用方法が法に違反しただけなのだから、世間体を慮って?とりあえず解散をするというのはいかがなものか。総理候補を出すという派閥の機能が失われて久しいが、それでも人事機能は残るだろうにと思っていたが、先日某議員と話していたら、彼は派閥には反対だという。締め付けなどが厳しかったのかもしれない。そして実際に、まだ残っている某派閥を脱退したとのこと。人事機能について聞くと、派閥に頼らなくても、党で集約してそれは何とかなるだろうとの話であった。各議員がどの部会に所属してどういう法律に携わり…といった情報を党で一括して把握すれば、それは確かに何とかなるかもしれない。

 新聞や雑誌で興味のある本に接すると、港区図書館のホームページで検索し、有れば(よほどの専門書でない限りたいていは有るから、すごい)予約をするのが習慣になって数年になる。ベストセラーなどは待ち人500人位に上り、1年位待たされたりするけれど、それでも順番は回ってくる。そのときには興味は薄れていたりするが、それでも目を通すと、それなりの収穫はある。『強欲資本主義は死んだ──個人主義からコミュニティの時代へ』、原題はGreed is Dead:Politics After Indivisualism 著者のポール・コリア及びジョン・ケイは共にイギリス出身著明な経済学者であるという。訳者の池本幸生氏の詳しい訳者解説付きである。

 随所に、へえーということが書いてある。例えば、連邦最高裁が1973年妊娠中絶を女性の権利と認めた画期的な判決(プライバシー権を発見し、そこから選択権を導き出すという手法を採ったとされる)から50年後の2022年6月、この判決を覆す判下したために、中絶の権利に対する憲法の保障がなくなり、全米の半数以上の州が中絶の禁止や厳しい制限に動くとみられている。このことは報道によって知っているが、中絶は基本許されないとしても、レイプされて出来た子供を中絶できないなんて、そんなバカなことはありえない、と思っていた。それに対する答えが、本書には書いてあったのである。いわく、「アングロサクソンの世界では対立する場合の法的手続きは本質的に二元的である。すなわち、勝者と敗者があり、権利が存在するかしないかのどちらかである。アメリカにおける妊娠中絶を巡る議論は、「生存権」と「選択権」の間で二極化している。グレンドン(注:法学者。「権利の議論」(rights talk)を知らしめた)は保守的なカトリック教徒であり、彼女にとって「生存権」が何よりも優先されるべきものであり、この立場に立つトランプは彼女を国際的な人権のための委員会の委員長に任命し、多くのアメリカの女性たちを怒らせた。しかし、生存権や選択権のように対立する権利の主張は、どのような根拠に基づいて解決することができるだろうか。…その論争は激しいまま続いている。ヨーロッパのほとんどの国では歩み寄りが進展し、広く人々に受け入れられるようになっているのとは対照的だ。」(50~52頁)

 アメリカでは何でも訴訟になる。私もかつて知って、馬鹿馬鹿しいと思ったケースについても取り上げられていた。同性愛カップルの結婚式のためにケーキをデコレーションすることを拒否したキリスト教徒のケーキ屋が訴えられたのだが、それは法的には、彼は宗教の自由という自分自身の権利を行使したのか、それとも「性的指向に基づく差別からの自由」と「言論の自由」というカップルの権利を否定したのかについて、連邦最高裁の判断が求められたのは「実に愚かなことである」。結論的にケーキ屋が支持されたのだが、「なぜケーキ屋はケーキを焼いてあげなかったのだろうか。なぜそのカップルは別のケーキ屋からケーキを買わなかったのだろうか。私たちは、人々が互いに同じ市民であることを認め合い、裁判に訴えることなく、些細なもめごとを解決する社会に目を向けたいと思う。」(57~58頁)

 なんでも「権利」で主張するのは社会を窮屈なものにしてしまう。例えば、「目の不自由な人が電車に乗るのを助けるのは、その人が権利を持っていて、それに対応する義務を私がちが負っているからではなく、まともな人がすべきことをしているだけだ。もし目の不自由な人が駅のホームに立って自分の権利を主張するなら、私たちの対応はかなり違ったものになるだろう。」(55頁) 人に道を尋ねられたら、知っている限り、教えるのが普通である。親切にもわざわざついていってあげる人もいる。それを人間には、他人に親切にしたい欲求(4番目の欲求)があるのだと書いている人がいたが、そう定義するかどうかは別として、それが人が社会で暮らす上での潤滑油であることは間違いないであろう。

 全体的にはなかなか難しい内容であり、政治・経済・歴史についていろいろな基本的知識が要るなあと思わされた。最後に本書は「個人主義は孤独であり、個人の解放ではない。塹壕の中で身を守ろうとしても、最終的には失敗する。何かに所属することは、私たちにとって負担なのではなく、人間性を取り戻すことにつながる。」で締めくくられている。

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