週末、タブレットをいつものように弄っていたら、やたらと『ベルサイユのばら』がヒットするのに気がついた。劇場アニメが公開されるそうである。もともとの漫画はマリー・アントワネットらの20年にわたる話で、それをわずか2時間にまとめるのは難しいし、もともと映画を見に行く習慣がないのでそれはパスしたが、テレビアニメ版がネット上で一部公開されていたので、つい懐かしく、見てしまった。
当時の少女たちの愛読書であった週刊マーガレットに『ベルサイユのばら』は連載された。50年前のこと、作者である池田理代子さんは当時まだ大学生だったらしい。彼女が創作した男装の麗人オスカルが格好良すぎて、他の高校生たちと同様、私も存分に嵌まった。オスカル宛てに恋文まで書いていた。恋文を書いたのは後にも先にもそのときだけである。恐るべし、創作の威力である。
時代背景はフランス革命前。時のブルボン王朝はルイ15世の孫16世が王となり、その妃はあまりに有名なマリー・アントワネット(ドイツ読みだとマリア・アントニア)である。彼女は時のオーストリアの名門ハプスブルグ家の娘たちの末子として生まれ、母親のマリア・テレジアによる政略結婚の駒として、歴史的に犬猿の仲であったフランスに送り込まれたのである。1755年生まれで、未だ14歳。未熟過ぎるのに、オーストリアからのお付きは一切許されず、周りに相談をする人もいない。1歳上の夫は善人だが頼りなく、趣味は錠前作りと狩猟で、もともとの社交嫌い。妻とは真逆である。王妃の第一の勤めは跡継ぎを産むことだから、それがすぐにでも果たされていれば話は違っただろうが、夫は毎夜妻の元に通ってはくるものの(仮性包茎で?)夫婦関係は持てず、それが何年も続くことになる。義兄に進言されてようやく手術を受け、晴れて子供が生まれたのは結婚して実に7年後のことである。アントワネットは2男2女を産み(育ったのは1男1女のみ)、良き母であり、夫婦仲も良かったようである。
マリー・アントワネットが断頭台の露と消えたのは1792年9月、享年37歳であった。フランス革命記念日として世に知られるパリ祭7月14日は、民衆によるバスティーユ監獄襲撃勃発の日であり、これを3年遡る1789年のことである。世のあちこちで革命が起こり国のトップの処刑など珍しくないが、中でアントワネットが群を抜いて有名なのはなぜなのだろうか。美しい女性だからか(物腰の優雅さは喩えようがなかったという)、著明な母親の娘だからか、と考えたこともあったが、その理由は、長く一途に相思相愛だったスウェーデンの大貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵の存在故だと書いてある本があって、妙に納得した。彼はマリーと同い年、互いに18歳の時にパリの仮面舞踏会で知り合い、運命的な恋に落ちる。政略結婚が普通であった時代、夫婦は世継ぎさえ作ってしまえば恋愛は自由という風潮であったが、二人はプラトニックだったとの説も強い。『マリー・アントワネット』の著者である歴史家ツヴァイクは、国王一家が革命勃発後に軟禁されていたチュイルリー宮殿での「この一夜」との説を採っている。ルイ16世がとにかく女性関係など微塵もない夫だったので、妻ひとりが羽目を外すわけにもいかなかっただろう。もともとマリーは厳格な両親に育てられ、不倫などあるまじきことと思っていた節もある。この夫婦は全くもって似ておらず、フランス国民としては、地味で目立たない自分たちの王ではなく、ファッションリーダーでもあり浪費で知られたオーストリア女に憎悪をぶつけることになったであろう。
わりと最近知ったのだが、フランスの王権が決定的に失墜したきっかけは、1791年6月20日のヴァレンヌ事件だったという。その頃にはすでに王弟らは国外に逃亡済みで、王一家も逃亡を企てたのである。もっともマリーは国外脱出のうえオーストリアなど王党派の他国の援助を仰いで王権を維持しようとしたが、ルイは、王なのだから国内に留まり、革命派ではなく王党派の強い地域に逃れようとしていて、夫婦の思惑は違っていたらしい。とにかく愛する女性を助けるべくフェルゼンは多額の逃亡費用を用立てて計画を練るなどまさに心血を注いでいたのに、優柔不断のルイは何度もその計画を先延ばしにした挙げ句、現に逃亡の途中で、フェルゼンに対して「ここまででよい。あとはひとりでベルギーに行ってくれ」と追い払ってしまったのだ。王が逃げたことに気づき、直ちに後を追う指揮官は、アメリカ独立戦争の英雄として名を馳せたラ・ファイエット(フェルゼンはその副官としてアメリカに赴任していた)。終始もたもたしていた王一家は、フェルゼンも欠き、国境を超える前に捕らえられてしまった。
フェルゼンはこの失敗を終生悔やんだ。王に命令されたとはいえ、なぜ自分はその後にこっそりついていかなかったのだろうかと。であれば最愛の女性を死に追いやることはなかっただろうにと。彼はその後も生きて、53歳の時にスウェーデンで民衆に惨殺されたが終生独身であった。フェルゼンは、ただ優雅で可愛い女性としてではなく、環境が変わるにつれ、母として、頼りにならない夫を支え、王権を守ろうと毅然とするマリーに人間としての底知れぬ魅力を感じていたのだろうと思う。マリーの手紙には知性が溢れ、軽薄だった王妃時代のそれとはまるで別人である。なぜ最初からこうではなかったのか。であれば、絶対王政は時代の流れから無理ではあるものの、例えば英国のように立憲君主制にソフトランディングすることは出来たのではないだろうか。マリーの晩年の肖像画は人間としての深みを感じさせ、一人の男性にそれだけの愛を捧げさせた女性の素晴らしさを知ることができる。
『ベルサイユのばら』が大ヒットしたのは、これら史実をベースに、巧みにフィクションを交えたことによる。男装の麗人オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、上記二人と同い年の設定だ。ジャルジェ将軍には娘ばかり5人が続き、将軍は末子の彼女を男として、自分の後継者に育て上げることにする。長身にブロンドの髪、まさに容姿端麗のうえ剣捌きは男以上(バイオリンも巧みで、モーツアルトの新作を披露している)。まさしくこれぞ宝塚の世界ではないか。とにかく格好が良い。常に毅然とし、正義感が強い。女々しい所など皆無なのだ。男女問わず、これでは誰でも惚れるわなあ。そして彼女を慕う従僕のアンドレ。オスカルの乳母の孫であり、小さいときからきょうだいのように育てられ、いつも影のようにオスカルに付き従い、支える。アンドレも大変格好が良く、アンドレファンがたくさんいる。
オスカルはフェルゼンに恋するが、もちろん片思いである。そしてたぶん30歳も超えたころから、アンドレを男性として意識するようになる。アンドレの目がだんだん見えなくなっていたことは知っていたが、今回のテレビアニメを見て、オスカルも結核で「余命半年」と宣告されていたことを知った。民衆の苦しみ、世の中の生まれながらの不公平を知り、近衛連隊長の職を捨てて衛兵隊長となり、貴族の地位や特権を捨て、バスティーユ監獄襲撃事件では民衆の側につく(民衆に寝返った近衛隊員がいたことを知って、池田さんはその人を描きたいと思ったそうだ。もちろん史実の人は男性だったと思われるが)。貴族と平民という身分差のため結婚はありえない時代だったが、共にパリに出発する前夜、二人は晴れて結ばれて夫婦となっている。この事件の際アンドレはオスカルを庇って死亡、まもなくオスカルも銃弾に倒れ、「アンドレが待っている」と亡くなる。享年33歳。
その後の王家はひたすら惨い運命を辿った。マリーの愛した息子(ルイ17世)はひとりほぼ監禁状態に置かれ、看守らの虐待を受けて食事もろくに与えられず10歳の儚い命を終えたという(何が、人権だろう)。その後のロベスピエールらによる恐怖政治で数え切れない人たちがやはり断頭台の露と消え、彗星のごとくナポレオンが登場して…王政復古があって、この頃のフランスの歴史は激しく変転しすぎて、なかなか理解が追いつかない。オスカルらはフランスがより良き国になることを夢見て、長年使えたマリー・アントワネットと決別したが、こうした現実を知らずに済んで本当に良かったと思える。天国でアンドレと幸せに暮らしてほしいと思う。
よけいなことだが、マリア・テレジア。自身は遠縁に当たるフランツに小さな頃から憧れ、恋をし、父親であるカール6世の許しを得て18歳で結婚した。この頃には非常に珍しい恋愛結婚である。父親が男子に恵まれず苦労したのを知っているだけに次々と子供を産み(なんと16人!)、次々と政略結婚させた。アントワネットのすぐ上の姉が本来フランスに嫁ぐ予定だったが、その上の姉がナポリ公国に嫁ぐ直前に亡くなったことから急遽そちらをナポリに嫁がせ、末子のアントワネットをフランスにやることにしたらしい。彼女は愛らしかったが、勤勉さに欠け勉強嫌いだったので、大国の妃が務まるか心配されていたが、その心配が現実のものとなったわけである。ちなみにヴィクトリア女王、エリザベス2世女王も恋愛結婚である。政略結婚であったならば人間の性として他に恋愛対象が必要となり、政務はきっと疎かになったであろう。名君の裏には名配偶者が存在している。