今月末、大学は定年退職を迎えるが(定年退職は初めてで、最初で最後の経験になる)、20年勤めたこともあり、名誉教授を頂ける運びになっている。本当に有り難いことである。なお退職金など想定外だったが、頂けることを知り(退職金は無税)、これまたとても喜んでいる。臨時収入だ。大学の自分の部屋もほぼ整理し終え、あと教員会議に行けば、4月からは講義も試験採点もない。講義がなくなるのはちょっと寂しいかもしれない。ただ週1日とはいえ、片道2時間の通勤がなくなるのでその分体は楽である。自由業の区切りをつけるのはなかなか難しいだろうが、定年のある職種は否応なく区切られるので、ある意味気分的に楽かもしれない。
臨時収入が入るのを見越して(?)またまた毛皮を買ってしまった。すでに7着もあるのに、これ以上増やしてどうするというのだ!? 傍から見れば呆れるばかりであろう。だがこれは私の道楽(趣味)なので、致し方がない。お金を使うとすればお洒落しかないのである。家は要らないし、家具も要らないし、旅行熱はないし、ピアノは家に2台(加えて実家に1台)ある。40年の間に貴金属やアクセサリー、スカーフやショール、ハンドバッグなど増えすぎて身は一つしかないので、あちこちに分けてかなり整理しているのだが、それでも人様が見たらびっくりするほど、たくさんある。着物はわずかにこの11年であれよあれよと増えすぎて、置く場所も着る機会も追いつかないほどである(誰か着てくれる人がいたら、差し上げたいくらいだが、着物もサイズがあるのでなかなか難しい。売れば二束三文だし)。
顧みて、物心ついたときから、私はお洒落が大好きだった。母が洋裁をやっていて、家には高度なミシンと洋裁用ボディがあり、服飾雑誌が毎月届いた。ろくな既製服がない当時、母は顧客ばかりか私の服も作ってくれていたので、私は自分のデザイン帳を持ち、服飾雑誌を見ながら、次はこういうコートが欲しいとかデザインをしていた。そして三宮のトアロードの行きつけの店に一緒に行って、生地やボタンその他を選んだのである。大学では周りがジーンズの中、ひとり違う服を着ていたので、「六甲台のベストドレッサー」と言われていたらしい。他学部から見に来る人もいて、「お医者様のお嬢様だそうですね」と面と向かって言われたときには、びっくりした。まさかあ。本当に普通の、サラリーマンの家である!
ただ普通のサラリーマンにしては、5歳の時に当時20万円もした(父の給料は月1万円だったのに)ヤマハのアップライトを、母が内職で捻出して買ってくれた。8畳の狭い寮に象牙のアップライトが運び込まれた日には大勢が総出で見物していたものである。それが壊れてしまい(弦が2本ほど切れた)、19歳の時には値上がり前のグランドピアノを買ってもくれた(当時60万円。値上がりで100万円になると言われたのだ。このピアノは今も健在で尾道の実家に置いてある)。服は母が作ってくれるのでいつもいいのを着ていたし、お弁当は周りが見に来るほど手の込んだ母の手料理だったし、見かけ以上の暮らしをしていたかもしれない。オーブンが昭和30年代初めからあり、毎日シュークリームやプリン、ケーキが焼かれていた家はほぼなかったはずである。そのことを同級生たちの家を回って私は知ることになる。ちなみに私もケーキ作りは得意であり、パウンドケーキ用のラム酒漬けフルーツは常備していて、作って大学に持っていくと非常に驚かれたものである。母は出汁一つとっても最初から作る本格派で、衣食住のうち衣食は完璧な生活だった(とずいぶん後になって思うようになった)。
「三つ子の魂百まで」という。とにかく私はお洒落が大好きで、いつも頭のどこかはお洒落に占められていた。何を着ていこうという楽しみがあるから仕事にも行けるよね、と本気で思っていた(今はさすがにそこまでではない)。毛皮を初めて買ったのは東京地検にいた28歳の時だ。同僚の結婚披露宴に着ていくワンピースは買ったけれど、この上に毛皮が欲しいよねと思っていたところ、目に飛び込んできたので、即刻購入した。あの瞬間はよく覚えている。60万円也(消費税はまだなかった)。茶色ミンクのハーフコート。月20万円ほどの安月給で買えるわけもなく、勧められるままにローンを組んだ。人生初めてのローンである(最初で最後だ)。詳細は覚えていないのだが、24回払いだとしても月3万円近く払うことになっただろうか(それとも36回払いにしたのだろうか?)。その後松山に赴任して懐具合が厳しく、毎日弁当を作って持っていったのをよく覚えている。あれでローンにはすっかり懲りた。そんなに苦労して買ったコートなのに、だんだんみすぼらしくなり、母に上げてしまい、しばらくして見たら毛が抜け落ちて、とても着れないものになっていた(毛皮も消耗品である)。
毛皮の値段は以後どんどん下がっていき、私の収入も上がっていったので、15年程前100万円のレオパードキャット(イタリア製)も普通に買えた。結局全部で20点は買ったと思う。韓国に出かけて買ったこともあるし、日本橋三越でも何点か買った(毛皮コーナーは閉店になって久しい。有楽町のエンバも閉店した)。どれも人に上げたり、あるいは廃棄して残っておらず、今ある8着はすべて別の所から買ったものである。いったん暖かくなった今月初め、気の早い私は一部の衣替えをしてしまったのだが、昨日の寒さは毛皮なしではやっていけずまた着ることになり、今日も、たぶん明日もそうだろう。毛皮の暖かさ軽さは、カシミアなど普通のコートの比ではない。毛皮らしくないよう今は加工されているのが主流であり、私には必需品だと思っている。
出色のノンフィクション作家・堀川惠子さんの『透析を止めた日』のことやら、夫婦選択的別姓ないしは同姓婚のこと、最近の親子の法的事情やらのことを書きたかったが、それはまた後日に。