4月24日,「ルーシーさん事件の無罪」判決が出た。
1992年2月から2000年7月にかけて,日本人4人,外国人6人の若い女性を誘い出しては薬を飲ませ,強姦を繰り返していた(準強姦。法定刑は強姦と同じく「3年以上の有期懲役」)織原被告人に対し,東京地裁で「無期懲役」の判決が言い渡された。求刑通りである。
有罪となった他9件のうち6件の罪名は準強姦だが,2件は準強姦致傷であり,最も犯情の重い1件は準強姦致死である。準強姦致死傷の法定刑は「無期又は3年以上の有期懲役」であるので,罪名がこれに止まる限りはどれほど凶悪悪質でも,何十件重ねようとも最高刑は無期懲役刑である。殺意をもった「殺人」がない限り,死刑は科しようがなく,これは,10件中最も犯情の重いルーシーさんの件が有罪になっても同様であった。
ルーシーさん事件は「合理的な疑いを超えるまでには有罪を立証できていない」と判断されたのである。他9件には存在する暴行ビデオ(こういうのを残す変態は実際,珍しくない)が残っていないことが決定打だったようだが,一方,遺体損壊に使われたと見られるチェーンソーを購入した事実など,遺体隠しに何らかの形で関与したことは疑いないとまで踏み込んだ。推測だが,ルーシーさんは薬を飲ませたときにショック死し,以後の暴行が出来なかったのではないか。被告人は,死亡させてしまったことに動転し,これまではしなかった死体損壊・遺棄に走ったのではないか。
思うに,この3人の裁判官の感覚はどこかずれてはいないか。
仮定の話だが,もしルーシー事件のみでの起訴であれば,どうしただろうか。やはり疑わしきは罰せずとして被告人を無罪としただろうか。いやおそらくそうではないだろうと思うのだ。死体隠しに関与したのは疑いない被告人を,無罪→釈放とはなかなか出来ないはずである。だが,この裁判では他に9件ある。たしかな証拠のない案件は無罪としても結果は変わらない。だから厳格に(というか硬直に)事実認定をして無罪という結論に導いた気がする。検察が起訴するとき,たしかな事実だけを起訴し,量刑は変わらないのだからとあとは不起訴にしてしまうのと,これは似ている。
だが被告人は常習犯なのである。死体遺棄に関与したことは証拠上間違いない。であればその前の準強姦致死も有罪と考えるのが,普通一般人の正常な感覚というものであろう。2年後に導入される裁判員制の下では,必ずやそういう結果になったであろう。
この判決には人の情が欠落していた感もある。被告人や社会にとっては同じ無期懲役でも,遺族にとっては掛け替えのない肉親である。それが無罪になれば一体誰を犯人として恨めばいいのだろうか。この日のイギリスのトップニュースは,日本の司法への不信感を流していた。くしくも同じく若くて美人のイギリス女性が千葉大生に殺された(犯人は身検挙)。両国の立場を変えて見れば,日本=変態男であり,加えて不正義の司法ではなかろうかと危惧をする。裁判所にとっては数ある事件のうちの1つにすぎないだろうが,国際的な影響も大きい。