あるテレビ番組で、司会者が女性タレントに尋ねた。
「戦国武将は誰が好きですか」
「坂本龍馬です」
「えっ。龍馬は戦国武将ではないですよ」
「(ちょっと驚いて)ぶしょうって何ですか?」
「織田信長とか豊臣秀吉とか徳川家康とか」
「へえ」
ああ、これだと思った。思ったことは二つ。
一つは、語彙が不足していると文意が読みとれないということである。どの言語も結局は語彙を増やすことが上達につながるが、日本語の場合は端的に漢字力をつけることである。
専門用語は分からなくて普通だが、学生に話していて、例えば「せんご」「はいせん」「せんりょう」など、理解されていないよう感じる。歴史に関する知識がないからであろう。一般に、生活にない語彙は必要がないため身に付かない。だからこそ新聞を読め、本を読めと言うのである。
もう一つは、テキトー(「適当」ではない。)に言葉を発する人が私の周りにも結構いるということである。弁護士ですらいい加減な人が珍しくない。この頃私は性格が少し穏やかになって、人が約束を守らない、嘘をついたテキトーなことを言った、でいちいち腹を立てないようになった。これも年の功かもしれない。
だがもちろん、人たるもの、言う以上は言ったことに責任を持たなければならないのは当然である。日本には古来、言霊信仰がある。言葉には魂が籠もるから、間違ったことを言ったり約束を違えたりすることはできないのである。
言葉はすなわち人格そのものなのだ。重さの極みにあるべき言葉が、某国の首相はじめ、軽さの極みとなって、嘆かわしくて仕方がない。
自由民主党女性誌 『りぶる』