活字離れが止まらない。
かねてからの出版不況のうえ、新聞の購読者数が軒並み落ち込んでいるという。
新聞は生活の必需品だと堅く信じてきた私だが、今の学生が新聞を読まないのは驚くばかりである。理由を聞くと、高いと言う。たしかに下宿者には高いだろうが、飲み代を少し削れば購読料くらいは出る。
ニュースはネットで見られると彼らは言うが、ネットには社説・論説がない。各社生え抜きの論説委員が知恵を絞って書き込む記事は、思考力を培うのに格好の材料である。加えて、新聞では記事の軽重が一目で分かる。どの記事を何面に載せ、どれだけのスペースをさくか。どういう解説を、どの識者に書かせるか。各社が頭を捻るからこそ何紙も購読する価値があるのである。
対するネットではどのニュースも同じに扱う。新しい順に更新され、古い分が消されていく。妻がワイドショーばかり見て、芸能も政治も同レベルの話題にすると嘆く知人がいるが、ネットがまさにそうである。そんな情報をいくら仕入れても知識とはならない。知識とは体系的なものだからである。
人と接していて、軽いなあと感じることがある。物事を表面的にしか見ない、自分の言葉にならない……。これはそもそもの思考力が不足しているのである。考える力をつけるには、まずもってそうした文章が読めなければならない。漢字が読めるのは当然のことだ。読めなければ自ら考えることはできない。もちろん論理立って話すことも書くことも無理である。
ネットは単にツールにすぎない。知識あってこその情報である。自らが使える器ではないのに、ただ便利だからとネットを使うのは危険である。だが活字離れは止まらない。どうすればいいのだろうと思う。
自由民主党女性誌 『りぶる』