大学の前期授業では大きなショックを受けた。学生に条文を読ませようとしたら、読めないのである。「教唆」「幇助」「嘱託」「宣誓」……。
難しい漢字ではない。少なくとも大学入学時には必須のレベルであろう。おまけに私は講義で何度も口にしてきた。それが読めないということは、聞いていて意味が分からないということである。時事を適宜採り入れながら分かりやすい講義をしていると悦に入っていたのが一転、自己満足だったと思い知らされた瞬間だった。
だが事はひとり我が大学だけの問題ではないはずだ。ゆとり教育のお陰か、肝心の基礎学力がつかないまま、選びさえしなければ大学には入れる。
国語力が落ちていることにはずいぶん前から気づいていた。司法試験合格答案でもひどい日本語が多いし、法曹の作成書面も意味が分からなかったりする。大学の定期試験で私はずっと論述式問題を出しているが、きちんとした答案はわずかである。教科書を読ませると大方の漢字が読めない子もいる。
この6月、参議院文教科学委員会での教育再生関連3法改正の公述人によばれた際、私は基礎教育では国語力を培うことこそが肝要であると切に述べた。国語力はものを考える力であるとともに、感性をも作る。知らない言葉で人は感じることができない。つまり国語力が人間を作るといって過言ではないのだ。
子どもの時に絵本を読み聞かせられ、以後自ら親しんでくれれば自然に培われるものが、ああ今や手軽なネットや携帯の時代、まともな文章がどんどん失われてゆく。しかい嘆いていても仕様がない。現実は現実として、後期授業は心機一転、頑張らなければ。
自由民主党月刊女性誌
『りぶる』