執筆「人生の選択は自ら選び取ったもの 人はそれぞれ資質を持っている」

 新年号に相応しい話題でなくて恐縮なのだが──。
 私が、人は必ず年を取ると実感したのは、3年ほど前である。そうなって初めて、様々なことが見えてきた。
 この知恵を持って若い時に戻れたら、もっとずっと賢く生きられたはずだが、知らなかったからこそ人生は、希望に満ち溢れていたのかもしれない。
 若さとは、つまり、可能性である。出来ること、やりたいこと、いろいろと思いを巡らせられることである。年を経るほどに、積み重なった現実の比重が増し、その分徐々に、可能性は狭まっていく。そして今や、諦めというよりむしろ悟りの境地で、言えることがある。
 人の生まれ持った器は自ずと決まっている。だから多分に「そのようにしか生きられなかった」と。
 振り返って、私が地元の国立大学に進んだのは、下宿はさせないとの親の意向があったからだとずっと思ってきたのだが、そうではなく、私自身が選択したのである。こぢんまりした規模が私には居心地がいいのだ。もし私が、大きな志を持ち、絶対に東京に行くと言い張れば、実現させていたにちがいない。
 大学で職業にあれこれ思いを巡らせたとき、政治家も官僚も選択肢にはなかった。今分かるのだが、官僚・政治家を志望する人は、国家や国際社会といった大きな場でのビジョンを持ち、組織を動かすことに喜びを覚える人である。対して、具体案件の的確な法的処理にやり甲斐を見出す司法官志望者は、元々の資質が違うのだ。
 その後たまたま検事に任官した私だが、巨悪を裁くといった野望とは無縁であった。市井の事件で、被害者と共に泣き、犯罪者の更正の一助となることに大きな喜びを感じた。実際、検事数100人を超える東京地検より、検事数名の小地検のほうが、はるかに己の存在感を実感でき、居心地がよかったのである。
 これがつまり、終始一貫、私という人間の本質なのだ。
 今や全国で2万人を超える弁護士は、自由業でもあり、金儲けに邁進する事業家から人権派まで実に様々だ。私はといえば、誠実な職人タイプであると思う。私を頼ってくれる人のために最善を尽くすこと、それが生き甲斐だ。お金はあくまでその結果。お金よりはずっと、時間が欲しい。
自由な時間、そして空間。家でぼうっとしているとき、私は根っからひとりが好きなのだと思う。結果、少子化に貢献してしまった悔いは残るが、これまた決して偶然ではなく、自ら選び取ったものなのだと思う。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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