正直に言うと、私は長い間自分のことを、なかなかの努力家であると思ってきた。それなりに勉強もしたし、コツコツ真面目にやるほうだと。
だがどうやら、そうではないらしいと分かってきた。つまり、
「人間は結局、自分のやりたいことしかやらない。いや、自分のやりたいことしかやれない、と言ってもいい。いやいやながらそうする、という場合だって、与えられたその状況で出来ることの中では、一番やりたいことをやっているはずだ。」(『<子ども>のための哲学』永井均・講談社現代新書)。
たしかに、その通りなのだ。私も結局は、好きなことをやってきただけ。嫌いなものはしなかった。例えば理科。そして、運動。三〇代に入って一念発起し、エアロビクスと水泳に通ったが、いっこうに上達せず、面白くないのでやめてしまった。社交や老後を考えるとゴルフが最上だが、悲しいかな、やっても上達せず、面白くないのできっと続かないと分かっている。実に「好きこそものの上手なれ」。たまに「下手の横好き」はあれど、「好き」がすべての基本である。そして普通は、ある程度得手だからこそ継続できるのだ。
努力家というのは、嫌いでも苦手でも、やらねばならないことはやる人のことを言うだろうから、私は違う。どころか、むしろ怠け者の部類に入るだろうと思う。
生来硬い体がここ数年とみに硬くなり、ストレッチを続けないと今に腰が曲がるよと脅されても、ままよと放っているほどだからだ。自分がこの程度だから、学生には、勉強しなさい、努力しないとダメと言いはするが、本心では、好きでないとやらないだろうなあと思っているのである。
要はシンプルな話で、人は「快」を求めて行動する。心身共に心地良いことをするのだ。おいしい物を食べたい、気の合う人と一緒にいたい。それと同じように、好きなことはやる、できることはもっとできるようになりたいと欲が出て、やる。つまり、やる気を出すためには、対象を好きになることであり、またさらには得手になることなのだ。
昨今、学業・勤労いずれにも意欲のないニートが社会問題となっている。勉強して新しい知識を得る快はともかく、働いて人の役に立つ快を、大人になる過程で彼らはなぜ教わらなかったのだろうか。簡単なことなのに。透けて見えるのは、自ら勤労に快を覚えない親。子どもに手伝いをさせず、また手伝ってもらって感謝を表さない親‥‥。生きる力のない人間が育つ現実を、こんなところにもまざまざと見る思いがする。
自由民主党月刊女性誌
『りぶる』