執筆「日本に根ざす司法制度を」

「弁護士って、検事と正反対の立場ですよね。大変でしょう」とよく言われる。
  笑って答える。「映画やテレビではそうだけど、実際は大して変わりませんよ」。無罪を争う事件は限られ、素直に罪を認める事件がほとんどだ。検察官も弁護士も、その目指すところは同じ。犯罪者の更生、社会秩序の維持、被害者の救済である。
  裁判で明らかにすべき事実は「真実」だ。これは本来「神のみぞ知る」ことだが、唯一絶対の神は不在だし、一方で「お上」への信頼は高く、国民が刑事司法に真実の究明を求めているのだ。結果、ともすれば精密を極めすぎ、裁判長期化の要因ともなっている。
  この対極がアメリカである。
  刑事司法も基本的に、民事と同様、当事者間、つまり検察官対被告人(弁護人)の争いであり、多くが司法取引で決着する。その典型は、無罪を主張したいが陪審では勝てないと判断した場合、軽い罪名と刑罰で手を打つことだ。取引はせず陪審裁判にした場合、弁護士が依頼者から聞かされるべきことは「陪審に信じ込ませたい事実」である。
  アメリカはそもそも人種も価値観も多様な国である。だからこそ、共通のルールを法律が定め、詳細な契約を結ばなければならない。弁護士が増え、訴訟社会が必然となる。
  近時日本にも、法曹の大幅増員に始まる司法改革の波が押し寄せている。その理想にアメリカがある。何であれ、アメリカ。それが戦後日本の現実だ。だがもうそろそろ、自国の拠って立つ基盤を見つめ直す時ではないのだろうか。

東京新聞 夕刊 『放射線』
(中日新聞 夕刊 『紙つぶて』)

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