先週金曜(26日),足利事件の再審無罪判決が出た。
まずもって菅家さん,お疲れさまでした。無実の罪で17年。長い。長すぎる。無期懲役刑であればこそ生きて名誉を回復できたけれど,もしこれが1人ではなく2人の殺害で死刑判決となり,そして死刑が執行されていたらと思うとぞっとする。
想起するのが,一昨年秋に死刑を執行された飯塚事件である。飯塚で起こった,女児2人のわいせつ殺人事件。こちらの被疑者にも前科前歴はなく目撃証人などの客観的な証拠はない。同時期に実施されたDNA鑑定が決め手となった点も共通する。大きな違いは,足利事件には当初あった自白がなく,被告人が最高裁まで一貫して無罪を主張し続けたということだ。また,DNA鑑定の誤りを認める資料となるべき遺留物が残っていないため,鑑定が誤っていて彼は無実であったと確定するに足りる決め手はない。
死刑執行は,死刑判決の確定後わずか2年であった(法律では半年以内に執行となっているが,実際死刑確定者は約100人滞留していて,2年は短いほうである)。当時すでに足利事件の再審請求及び当時のDNA鑑定の不完全さは知れていたのであるから,まさに死人に口なしとなった。
さて,今回の再審無罪の結論は分かっていたから,最も考えさせられたのは,実は裁判官3人が起立して深々と頭を下げ,謝罪をしたことである。
もちろん彼らは当初の裁判に立ち会ったわけではないから,組織として頭を下げたということになるだろうが,では裁判所の上の誰かが指示をしたか? まさか。裁判官の個々独立は民主主義の要であるから決してあってはならないことである。となると彼らは協議して,人として,気の毒なことだからと考え,揃って頭を下げた…。なんだか変だなあと言うと,誰もあまり問題意識を持っていないようなのだ。アメリカ暮らしが長い知識人いわく,「日本は謝罪文化の国だから。誰かが頭を下げないことには納得をしない」。割り切れないままなんとなく納得をする。日本はもともとそうした社会なのであり,欧米,ことにアメリカのような,民族・価値観が多種多様にあって争いが日々当然に起こり,ゲーム(狩の獲物)のような感覚とは異質であると改めて思う。
菅谷さんたちは捜査にあたった担当検事が謝罪しないと言って怒っていたが,私自身が担当検事であったとしてもそう簡単には謝罪できなかったろうと思う。当時の証拠関係では犯人だと確信していたのだし,また強引な取り調べもしていない。
実際,検察の現場にいたものとして,世論が早く逮捕して処罰をと望む凶悪犯人について,警察が日夜努力して犯人をようやく見つけ出し,逮捕して送検してきたのを,ちょっと疑わしいからと言って釈放はできないこともよく分かるのだ。それは,殺意は難しいが傷害致死で,とか強姦の犯意が難しいから横領の犯意が難しいから釈放をというのとは次元の異なる話なのだ。凶悪事件の真犯人は必ずいるのだから,疑うことは警察の捜査が失敗だったと宣言することになる。そしてまた一から捜査やり直しとなるはずだが,現実にはそうはいかない。アメリカでも陪審で無罪となっても真犯人捜しはもはややらない。
冤罪はどんなに軽い罪・刑罰であってもあってはならないことであり,マスコミも含めて我々は日々それがなきよう努めねばならない。