このところ非常に、憂鬱だ。長い夏が終わって急に気温が下がったせいではない。理由は、ついに日本は沈没かと思える事件が二つ続いたことである。
一つはもちろん、村木元局長事件主任検事の証拠偽造である。
21日の朝日新聞がすっぱ抜き、最高検が当日夜には検事を逮捕した。証拠隠滅罪(刑法104条)は「他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、もしくは変造した者は20年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」。現場でもそうそうはない。
自分の刑事事件に関する証拠は省かれ(つまり自分が罪にならないよう証拠を隠滅するのは人間の性であって期待可能性がないと考えられている。)、親族や仲間など「他人の」刑事事件に関する証拠を隠滅する犯罪だ。検事が被疑者の証拠を隠滅するなど、刑法制定者が予想しようもない。必ずや判例として後世にまで伝えられることになろう。
しかし、今もってよく分からない話なのである。以下、5つの項目を挙げて、述べる。
1.問題のフロッピーについて
昨年5月29日、係長上村被告(実行犯)を逮捕。捜索により、問題のフロッピーを含む多数の証拠品を押収した。
文書偽造罪の最も重要な証拠品は、いうまでもなく偽造した文書と、その偽造に用した物である。昔は筆や紙だったが(この時代は筆跡鑑定がものを言った。)、次にタイプライターとなり、今はみなパソコンである。文書をパソコン本体に保存するのでなければフロッピーなりUSBなどに保存する。パソコン本体のデータは削除・変造しても今や復元可能なのは常識だ(これをdigital forensicという。法医学ならぬコンピュータ解析学である)。
この最重要証拠品の最終更新日は2004年6月1日であった。動かしがたい客観的証拠であり、上村被告の単独犯行だとしても偽造の実行日はその日なのである。しかし、検察はその客観的証拠を黙殺した(としか思えない)。
郵便局から証明書がないと指摘されたのが同年6月8日、提出が6月10日という証拠は動かせないので、村木課長の指示は6月上旬と認定した。そして、彼女を昨年6月14日、大阪地検によびだしていきなり逮捕し、否認のまま7月4日に起訴をした。上村被告についてはその前に起訴をしたが、村木被告との共犯とするために、偽造日時は同じように6月上旬とし、供述調書もそう取っている。客観的証拠と明らかに矛盾するのに、である。
そんな供述調書などいくら取っても何にもならないのは日を見るより明らかだ。だから当然のように無罪となった。
そもそもが「上旬」といった、漠然とした起訴(訴因)はありえない。検察のイロハである。
犯人がしょっちゅうやっていることであれば特定できないこともあるだろうが、仮にも職を賭すべき偽造なのである。もっとも上村被告は上記客観的証拠どおり6月1日に偽造をしたと言い張っていたのだが、特捜部では初めに結論ありきだった。課長の関与まで認めなければ厚労省の組織的犯行とは位置づけられず、特捜部としてはつまらない(!)ので無理やり日をずらしたのだ。そうとしか思えない。
これが件の前田主任検事の暴走、独走にとどまらず、組織の誰もがこれを止めていないのが恐ろしい。もう無茶苦茶である。小説にしたら誰も信用しない事実が現実としてまかり通っているのだ。
2.証拠品の扱いにおける大いなる疑問について
証拠品は昨年5月29日時点で押収されたが、最終更新日時が2004年6月1日とする捜査報告書が事務官によって作成されたのは昨年6月29日だ。上村被告はすでに起訴済みであり、この遅さは異様である。
今回の逮捕容疑は、昨年7月13日夜、前田検事がそのフロッピーを書き換えたことである。
自らのパソコンを持ち込み、書き換え専用ソフトを使ったという。同検事はパソコンに詳しかったらしい。最終更新日6月1日を6月8日に、特捜のシナリオに合致するよう変造した。
不可解なことには、彼はその3日後、上村被告側にこれを郵送して返却した。被告は拘置所にいるので、誰宛てに返却したのかは不明だが、今回の事件における最も奇奇怪怪なことはこの返却行為である。
その意図もさることながら、証拠品管理があまりに杜撰すぎて、現場にいた者としては言葉もない。
検察庁では証拠品は厳重に管理されている。たとえ主任検事といえども勝手に持ち出したり、ましてやそれを勝手に返却することなどできはしない。証拠品の返却は基本的に判決の確定後であり、もちろん郵送でなどはありえない。証拠品が逸失したとか中身が変えられているといったことを言われないよう、押収品目録に沿って一つ一つ確認してもらったうえで受領のサインをきっちりともらわなければならないからである。
それを、今から公判が始まるというときに、しかもたくさんの証拠品の中からうち一つだけ(しかも最重要の証拠品なのである!)を返却するなどは想定しえないことである。故にこれが私としては最も不可解であり、それ故に組織的関与を疑うしかない(少なくとも証拠品がなくなってすぐにはばれていたはずである。)。
返却の意図は以下のように推察している。
上村被告側に作成日は本当は6月8日かと思わせるしかけであったということだ。公判が始まった今年になって、公判担当の同僚検事らに「時限爆弾をしかけた」と言ったという。つまり、上村被告としては単独犯行ではなく課長の指示で動いたとするほうが情状は軽い。弁護人がそのフロッピーの記載を元にそう判断をし、被告に働きかけることを読んでいたのではないか。
証拠に基づいて事実を認定するのではなく、自らの描いた事実に沿うよう証拠を変造し、人の考えや行動まで変えてしまおう、変えられると信じていたのだろう。自らは万能である、神である…ここまでいくと、すでに妄想に近く、精神科の領域であるかもしれない
3.あまりに稚拙であること
同検事は完全犯罪を狙ったのだろうと思う。いずれこのような形でばれると分かっていればしなかったはずだ。これは多くの犯罪に共通する心理であり、その意味で罪を犯す者はたいてい冷静な判断を失っている。
本件の問題は、犯罪者がただの人ではなく、それを調べる側の多大な権力を持つ立場にいたということである。
冷静に考えて、もともとすぐにばれる話であった。理由は、以下の3つ。
1つ、真実に沿った捜査報告書がすでに作成されている(検察は出そうとしなかったが公判前手続き段階で開示を求められて結局提出した。)
2つ、フロッピーやパソコンの改ざんはどこかに必ずデータが残っていて、ばれる(そんなことくらいパソコンに習熟していない私ですら知識としては持っている)。
3つ、フロッピーをわざわざ、ありえない時期に一つだけ返却してきたこと自体、弁護側にはおかしいと考えられるであろうということだ。
おそらくはもうだいぶ前にばれていたと思われる。弁護側は村木さんの無罪が出るまでは抑えていたのであろう。
4.馬鹿な言い訳をしていること
調べる立場にいるときにもし被疑者に「遊んでいるうちにデータを変えてしまった」といった言い訳をされれば、「ふざけるな。馬鹿も休み休み言え」と机を叩いて怒鳴りあげていただろう。それがいざ調べられる立場になったとたん、この体たらくである。せめて正直に白状してほしい。
過失の場合には証拠隠滅罪は成立しない。だがそんな言い訳は通らない。内規に反して私用のパソコンを持参してきたのも問題だが、書き換えソフトをわざわざ入れてデータを6月8日に変えるなどという仕業がたまたまでなど出来ようはずはない。万歩譲って過失で書き変えてしまったとすれば、元に戻す以外に手はない。それを元に戻すこともなくわざわざ上村被告側に返却したのは故意以外に何ものでもない。
今後、被疑者の調べはやりにくくなる。馬鹿な言い訳は調べる側の検事のお家芸ときているのだから!
5.組織が機能していないこと
客観的証拠に反した起訴自体が大きな問題であったことはすでに述べたが、今回の証拠品管理の大問題にしても、組織が何ら機能をしていない事実には驚く。私はもっと早くから分かっていたと思うが、報道によると、今年になってから上司は知ったという。
大変な事態なのに、遊んでいて云々の上記弁解の下、フロッピーは返却されていて調べようがないし、捜査報告書は提出されているので問題はないしと、つまるところすべてが易きに失して今回の大事態を招いている。信じられないことだ。もともと証拠品のフロッピーが勝手に返却されていること自体が大問題なのだから。
そのことについてみな口をつぐんでいたことも、もともと組織的な関与があったと考える理由の一つだ。改ざんなどなかったとしても、それだけでも十分に処分ものなのである。特捜部長などは犯人隠避罪も疑われて然るべきである。最高検は徹底的に捜査をしなければならない。
特捜OBたちは今回の事件について口々に「信じられない。我々の頃は…」と言うが、その信じられない事態が起きたのだ。一検事の暴走に留まらず、一特捜部の暴走に留まらず、大阪地検、果ては大阪高検もそれを止めていない。たまたま出来の悪い人たちが揃ったからだ、こんなことは二度とは起きない、と誰が保障できるだろう。
検事の倫理観を高めようなどといっても、倫理観や道徳観という人間の根幹に関わる資質は、幼児のとき、親の教育ですでに出来上がってしまっている。法律を学ぶのはそれ以後のことであり、法律をいくら学んだところでそんなことは一切養成されないのである。
犯罪を犯す検事がいる。決裁も機能しない。そのことを前提に制度自体を見直す時期に来ているのだろうと思う。かなしいことだが、制度疲労を起こしているのである。
特捜部は捜査も公判も自らやるという、強大な権限を持つ世界最強機関である。チェックをするのは裁判所だけ。今回それが働いたわけだが、見方を変えるとあまりにひどすぎたから働かざるをえなかったともいえよう。今後は、精神論ではなく、戦後の日本人が確実に劣化しているという事実を認めたうえで、制度自体を変えていかなければならないと思う。
私は元からこのコラムで、政治家の悪を排除するのは国民でなければならないと書いてきた。選挙で選ばれもしない検事が巨悪を退治する、そのことに国民が拍手喝さいを送るという事態こそが民主主義の敗北なのである。
我こそが巨悪を退治する、政治家を捕まえる、そのために検事になったのだと公言している検事を何人も知っている。なにゆえにそうした特権意識を持てるのかが不明なのだが、当然ながら、その人たちの倫理観や道徳観は普通よりもさらに低い。特捜検事は肩で風を切って歩いている。そのためには犯罪を見つけてこなければならず、その究極には犯罪をねつ造する構図すらある。ある意味では起こるべくして起こった事件だともいえよう。
某県の捜査二課長に赴任した警察官が「ここはサンズイ(収賄のこと)を2年も摘発していない。肩身が狭くて警視庁の自分に声がかかった。在任期間中にようやく一つ、摘発できてほっとした」と語っていた。つまり、ここにあるのは市民でも国民でもなく、そのための正義でももちろんなく、自らの存在に関わる成果主義なのである。本来特捜部も検察も、国民のために捜査をしなければならないのである。その本来の正義を忘れ、目が内向きになり、自らのために捜査をするようになったとき必ずや組織は腐敗し、不祥事が起きる。ドラッカーの言うとおりである。
この大不祥事の延長上に尖閣諸島で起きた中国漁民釈放があると私は見ている。
彼らは領海侵犯をし、海上保安庁の巡視船に突撃をした。船長を公務執行妨害で逮捕。本来、普通の国であればこんなとき船を没収、乗組員も全員逮捕すると考えるが、日本はずいぶん手ぬるい。
2日後に勾留(10日間)、勾留を延長してさらに10日。この間に急遽、那覇地検が船長を釈放した。処分保留と言っているが、船長は日本にすでにいないのだから、起訴はできず、不起訴になるのに決まっている。次席検事が「日中関係を考慮して」と異例のコメントを出したのは、もちろん政治介入があったことを示唆している。
中国は資源があることが分かってから、尖閣諸島を自らの領土であると主張するようになった。もちろん古来、日本の領土である。だから日本の法律を犯されて正々堂々と刑事司法を遂行しなければならないのに、日本人4人が中国で拘束されたと聞いて慌てふためいたと見える。
昔、航空機を赤軍に乗っ取られ、人質の命大事さに、その要求通り、拘束中の赤軍派メンバーを解放したことが脳裏に浮かんだ。超法規的措置だと言われた。他の法治国家では決してやらないことだとも聞かされた。人質は可哀そうでも、国民の誰も法を曲げることは望まないというのである。そのことを思い出した。
しかし、そのときにはメンバーを解放することで人質を救うことはできた。だから日本国民は非難をしなかったのである。今回も、法を曲げて妥協をする以上、水面下で日本人の身柄引き渡しの交渉はついているものと思っていた。ところが、だ。まったくついていないどころか、中国はこれみよがしに、謝罪や賠償を高らかに求めてきている。こんなことなら釈放する意味などまるでなかった。外交は一体どうなっているのか。情けなく仕方がない。
官房長官の、「検察がやったことだ」とのコメントは、明らかに責任逃れである。
政治と検察との兼ね合いについては、検察庁法に規定がある。法務大臣が検事総長に指揮権を発動するのである。それを受けて検事総長が各事件担当の検事に指揮をするわけだが、この度は指揮権の発動をしなかった(指揮権は一度政治家逮捕の際に発動されたが国民のブーイングが大きくて以後二度と発動されていない。)。そして非公式に検察に釈放を迫ったのだ。検察は今、大不祥事のさなかにある。ちゃんと指揮権を発動してくださいよという正当な要求をすることができなかったと、私は見ている。
この二つの大事件で、気持ちがたいそうくらい。日本は民主主義国家でもなければ法治国家でもない。一体何だろうと思うのである。