3月になりました。私のお洒落歴など。

今月末、大学は定年退職を迎えるが(定年退職は初めてで、最初で最後の経験になる)、20年勤めたこともあり、名誉教授を頂ける運びになっている。本当に有り難いことである。なお退職金など想定外だったが、頂けることを知り(退職金は無税)、これまたとても喜んでいる。臨時収入だ。大学の自分の部屋もほぼ整理し終え、あと教員会議に行けば、4月からは講義も試験採点もない。講義がなくなるのはちょっと寂しいかもしれない。ただ週1日とはいえ、片道2時間の通勤がなくなるのでその分体は楽である。自由業の区切りをつけるのはなかなか難しいだろうが、定年のある職種は否応なく区切られるので、ある意味気分的に楽かもしれない。

臨時収入が入るのを見越して(?)またまた毛皮を買ってしまった。すでに7着もあるのに、これ以上増やしてどうするというのだ!? 傍から見れば呆れるばかりであろう。だがこれは私の道楽(趣味)なので、致し方がない。お金を使うとすればお洒落しかないのである。家は要らないし、家具も要らないし、旅行熱はないし、ピアノは家に2台(加えて実家に1台)ある。40年の間に貴金属やアクセサリー、スカーフやショール、ハンドバッグなど増えすぎて身は一つしかないので、あちこちに分けてかなり整理しているのだが、それでも人様が見たらびっくりするほど、たくさんある。着物はわずかにこの11年であれよあれよと増えすぎて、置く場所も着る機会も追いつかないほどである(誰か着てくれる人がいたら、差し上げたいくらいだが、着物もサイズがあるのでなかなか難しい。売れば二束三文だし)。

顧みて、物心ついたときから、私はお洒落が大好きだった。母が洋裁をやっていて、家には高度なミシンと洋裁用ボディがあり、服飾雑誌が毎月届いた。ろくな既製服がない当時、母は顧客ばかりか私の服も作ってくれていたので、私は自分のデザイン帳を持ち、服飾雑誌を見ながら、次はこういうコートが欲しいとかデザインをしていた。そして三宮のトアロードの行きつけの店に一緒に行って、生地やボタンその他を選んだのである。大学では周りがジーンズの中、ひとり違う服を着ていたので、「六甲台のベストドレッサー」と言われていたらしい。他学部から見に来る人もいて、「お医者様のお嬢様だそうですね」と面と向かって言われたときには、びっくりした。まさかあ。本当に普通の、サラリーマンの家である! 

ただ普通のサラリーマンにしては、5歳の時に当時20万円もした(父の給料は月1万円だったのに)ヤマハのアップライトを、母が内職で捻出して買ってくれた。8畳の狭い寮に象牙のアップライトが運び込まれた日には大勢が総出で見物していたものである。それが壊れてしまい(弦が2本ほど切れた)、19歳の時には値上がり前のグランドピアノを買ってもくれた(当時60万円。値上がりで100万円になると言われたのだ。このピアノは今も健在で尾道の実家に置いてある)。服は母が作ってくれるのでいつもいいのを着ていたし、お弁当は周りが見に来るほど手の込んだ母の手料理だったし、見かけ以上の暮らしをしていたかもしれない。オーブンが昭和30年代初めからあり、毎日シュークリームやプリン、ケーキが焼かれていた家はほぼなかったはずである。そのことを同級生たちの家を回って私は知ることになる。ちなみに私もケーキ作りは得意であり、パウンドケーキ用のラム酒漬けフルーツは常備していて、作って大学に持っていくと非常に驚かれたものである。母は出汁一つとっても最初から作る本格派で、衣食住のうち衣食は完璧な生活だった(とずいぶん後になって思うようになった)。

「三つ子の魂百まで」という。とにかく私はお洒落が大好きで、いつも頭のどこかはお洒落に占められていた。何を着ていこうという楽しみがあるから仕事にも行けるよね、と本気で思っていた(今はさすがにそこまでではない)。毛皮を初めて買ったのは東京地検にいた28歳の時だ。同僚の結婚披露宴に着ていくワンピースは買ったけれど、この上に毛皮が欲しいよねと思っていたところ、目に飛び込んできたので、即刻購入した。あの瞬間はよく覚えている。60万円也(消費税はまだなかった)。茶色ミンクのハーフコート。月20万円ほどの安月給で買えるわけもなく、勧められるままにローンを組んだ。人生初めてのローンである(最初で最後だ)。詳細は覚えていないのだが、24回払いだとしても月3万円近く払うことになっただろうか(それとも36回払いにしたのだろうか?)。その後松山に赴任して懐具合が厳しく、毎日弁当を作って持っていったのをよく覚えている。あれでローンにはすっかり懲りた。そんなに苦労して買ったコートなのに、だんだんみすぼらしくなり、母に上げてしまい、しばらくして見たら毛が抜け落ちて、とても着れないものになっていた(毛皮も消耗品である)。

毛皮の値段は以後どんどん下がっていき、私の収入も上がっていったので、15年程前100万円のレオパードキャット(イタリア製)も普通に買えた。結局全部で20点は買ったと思う。韓国に出かけて買ったこともあるし、日本橋三越でも何点か買った(毛皮コーナーは閉店になって久しい。有楽町のエンバも閉店した)。どれも人に上げたり、あるいは廃棄して残っておらず、今ある8着はすべて別の所から買ったものである。いったん暖かくなった今月初め、気の早い私は一部の衣替えをしてしまったのだが、昨日の寒さは毛皮なしではやっていけずまた着ることになり、今日も、たぶん明日もそうだろう。毛皮の暖かさ軽さは、カシミアなど普通のコートの比ではない。毛皮らしくないよう今は加工されているのが主流であり、私には必需品だと思っている。

出色のノンフィクション作家・堀川惠子さんの『透析を止めた日』のことやら、選択的夫婦別姓ないしは同性婚のこと、最近の親子の法的事情やらのことを書きたかったが、それはまた後日に。

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『亡くなった夫に腹違いの兄がいました!』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2025年3月号

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『ベルサイユのばら』に思うこと

週末、タブレットをいつものように弄っていたら、やたらと『ベルサイユのばら』がヒットするのに気がついた。劇場アニメが公開されるそうである。もともとの漫画はマリー・アントワネットらの20年にわたる話で、それをわずか2時間にまとめるのは難しいし、もともと映画を見に行く習慣がないのでそれはパスしたが、テレビアニメ版がネット上で一部公開されていたので、つい懐かしく、見てしまった。

当時の少女たちの愛読書であった週刊マーガレットに『ベルサイユのばら』は連載された。50年前のこと、作者である池田理代子さんは当時まだ大学生だったらしい。彼女が創作した男装の麗人オスカルが格好良すぎて、他の高校生たちと同様、私も存分に嵌まった。オスカル宛てに恋文まで書いていた。恋文を書いたのは後にも先にもそのときだけである。恐るべし、創作の威力である。

時代背景はフランス革命前。時のブルボン王朝はルイ15世の孫16世が王となり、その妃はあまりに有名なマリー・アントワネット(ドイツ読みだとマリア・アントニア)である。彼女は時のオーストリアの名門ハプスブルグ家の娘たちの末子として生まれ、母親のマリア・テレジアによる政略結婚の駒として、歴史的に犬猿の仲であったフランスに送り込まれたのである。1755年生まれで、未だ14歳。未熟過ぎるのに、オーストリアからのお付きは一切許されず、周りに相談をする人もいない。1歳上の夫は善人だが頼りなく、趣味は錠前作りと狩猟で、もともとの社交嫌い。妻とは真逆である。王妃の第一の勤めは跡継ぎを産むことだから、それがすぐにでも果たされていれば話は違っただろうが、夫は毎夜妻の元に通ってはくるものの(仮性包茎で?)夫婦関係は持てず、それが何年も続くことになる。義兄に進言されてようやく手術を受け、晴れて子供が生まれたのは結婚して実に7年後のことである。アントワネットは2男2女を産み(育ったのは1男1女のみ)、良き母であり、夫婦仲も良かったようである。

マリー・アントワネットが断頭台の露と消えたのは1792年9月、享年37歳であった。フランス革命記念日として世に知られるパリ祭7月14日は、民衆によるバスティーユ監獄襲撃勃発の日であり、これを3年遡る1789年のことである。世のあちこちで革命が起こり国のトップの処刑など珍しくないが、中でアントワネットが群を抜いて有名なのはなぜなのだろうか。美しい女性だからか(物腰の優雅さは喩えようがなかったという)、著明な母親の娘だからか、と考えたこともあったが、その理由は、長く一途に相思相愛だったスウェーデンの大貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵の存在故だと書いてある本があって、妙に納得した。彼はマリーと同い年、互いに18歳の時にパリの仮面舞踏会で知り合い、運命的な恋に落ちる。政略結婚が普通であった時代、夫婦は世継ぎさえ作ってしまえば恋愛は自由という風潮であったが、二人はプラトニックだったとの説も強い。『マリー・アントワネット』の著者である歴史家ツヴァイクは、国王一家が革命勃発後に軟禁されていたチュイルリー宮殿での「この一夜」との説を採っている。ルイ16世がとにかく女性関係など微塵もない夫だったので、妻ひとりが羽目を外すわけにもいかなかっただろう。もともとマリーは厳格な両親に育てられ、不倫などあるまじきことと思っていた節もある。この夫婦は全くもって似ておらず、フランス国民としては、地味で目立たない自分たちの王ではなく、ファッションリーダーでもあり浪費で知られたオーストリア女に憎悪をぶつけることになったであろう。

わりと最近知ったのだが、フランスの王権が決定的に失墜したきっかけは、1791年6月20日のヴァレンヌ事件だったという。その頃にはすでに王弟らは国外に逃亡済みで、王一家も逃亡を企てたのである。もっともマリーは国外脱出のうえオーストリアなど王党派の他国の援助を仰いで王権を維持しようとしたが、ルイは、王なのだから国内に留まり、革命派ではなく王党派の強い地域に逃れようとしていて、夫婦の思惑は違っていたらしい。とにかく愛する女性を助けるべくフェルゼンは多額の逃亡費用を用立てて計画を練るなどまさに心血を注いでいたのに、優柔不断のルイは何度もその計画を先延ばしにした挙げ句、現に逃亡の途中で、フェルゼンに対して「ここまででよい。あとはひとりでベルギーに行ってくれ」と追い払ってしまったのだ。王が逃げたことに気づき、直ちに後を追う指揮官は、アメリカ独立戦争の英雄として名を馳せたラ・ファイエット(フェルゼンはその副官としてアメリカに赴任していた)。終始もたもたしていた王一家は、フェルゼンも欠き、国境を超える前に捕らえられてしまった。

フェルゼンはこの失敗を終生悔やんだ。王に命令されたとはいえ、なぜ自分はその後にこっそりついていかなかったのだろうかと。であれば最愛の女性を死に追いやることはなかっただろうにと。彼はその後も生きて、53歳の時にスウェーデンで民衆に惨殺されたが終生独身であった。フェルゼンは、ただ優雅で可愛い女性としてではなく、環境が変わるにつれ、母として、頼りにならない夫を支え、王権を守ろうと毅然とするマリーに人間としての底知れぬ魅力を感じていたのだろうと思う。マリーの手紙には知性が溢れ、軽薄だった王妃時代のそれとはまるで別人である。なぜ最初からこうではなかったのか。であれば、絶対王政は時代の流れから無理ではあるものの、例えば英国のように立憲君主制にソフトランディングすることは出来たのではないだろうか。マリーの晩年の肖像画は人間としての深みを感じさせ、一人の男性にそれだけの愛を捧げさせた女性の素晴らしさを知ることができる。

『ベルサイユのばら』が大ヒットしたのは、これら史実をベースに、巧みにフィクションを交えたことによる。男装の麗人オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、上記二人と同い年の設定だ。ジャルジェ将軍には娘ばかり5人が続き、将軍は末子の彼女を男として、自分の後継者に育て上げることにする。長身にブロンドの髪、まさに容姿端麗のうえ剣捌きは男以上(バイオリンも巧みで、モーツアルトの新作を披露している)。まさしくこれぞ宝塚の世界ではないか。とにかく格好が良い。常に毅然とし、正義感が強い。女々しい所など皆無なのだ。男女問わず、これでは誰でも惚れるわなあ。そして彼女を慕う従僕のアンドレ。オスカルの乳母の孫であり、小さいときからきょうだいのように育てられ、いつも影のようにオスカルに付き従い、支える。アンドレも大変格好が良く、アンドレファンがたくさんいる。

オスカルはフェルゼンに恋するが、もちろん片思いである。そしてたぶん30歳も超えたころから、アンドレを男性として意識するようになる。アンドレの目がだんだん見えなくなっていたことは知っていたが、今回のテレビアニメを見て、オスカルも結核で「余命半年」と宣告されていたことを知った。民衆の苦しみ、世の中の生まれながらの不公平を知り、近衛連隊長の職を捨てて衛兵隊長となり、貴族の地位や特権を捨て、バスティーユ監獄襲撃事件では民衆の側につく(民衆に寝返った近衛隊員がいたことを知って、池田さんはその人を描きたいと思ったそうだ。もちろん史実の人は男性だったと思われるが)。貴族と平民という身分差のため結婚はありえない時代だったが、共にパリに出発する前夜、二人は晴れて結ばれて夫婦となっている。この事件の際アンドレはオスカルを庇って死亡、まもなくオスカルも銃弾に倒れ、「アンドレが待っている」と亡くなる。享年33歳。

その後の王家はひたすら惨い運命を辿った。マリーの愛した息子(ルイ17世)はひとりほぼ監禁状態に置かれ、看守らの虐待を受けて食事もろくに与えられず10歳の儚い命を終えたという(何が、人権だろう)。その後のロベスピエールらによる恐怖政治で数え切れない人たちがやはり断頭台の露と消え、彗星のごとくナポレオンが登場して…王政復古があって、この頃のフランスの歴史は激しく変転しすぎて、なかなか理解が追いつかない。オスカルらはフランスがより良き国になることを夢見て、長年使えたマリー・アントワネットと決別したが、こうした現実を知らずに済んで本当に良かったと思える。天国でアンドレと幸せに暮らしてほしいと思う。

よけいなことだが、マリア・テレジア。自身は遠縁に当たるフランツに小さな頃から憧れ、恋をし、父親であるカール6世の許しを得て18歳で結婚した。この頃には非常に珍しい恋愛結婚である。父親が男子に恵まれず苦労したのを知っているだけに次々と子供を産み(なんと16人!)、次々と政略結婚させた。アントワネットのすぐ上の姉が本来フランスに嫁ぐ予定だったが、その上の姉がナポリ公国に嫁ぐ直前に亡くなったことから急遽そちらをナポリに嫁がせ、末子のアントワネットをフランスにやることにしたらしい。彼女は愛らしかったが、勤勉さに欠け勉強嫌いだったので、大国の妃が務まるか心配されていたが、その心配が現実のものとなったわけである。ちなみにヴィクトリア女王、エリザベス2世女王も恋愛結婚である。政略結婚であったならば人間の性として他に恋愛対象が必要となり、政務はきっと疎かになったであろう。名君の裏には名配偶者が存在している。

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弁護士業務について思うこと

金曜である。金曜の朝快適に目覚めたときの心地良さといったらない。明日は休みである。とにかく仕事は一区切りなのだ。美容師さんに肩が凝ってないですね、と言われるほど、私はあまりストレスがかからない性格のようで有り難いが、それでも仕事から離れた時間は必要である。というかきっちり公私を分けて、切り替えをうまくしていることが、ストレスのかからない源であるかもしれないのである。

同じ弁護士業でも自宅と事務所が兼用だとか、事務所と自宅が余りに近ければ、たぶんそうもならないのだろう。21年前に事務所を決めたとき、ついでに自宅も近くに引っ越そうかと考えたことがある。実際近所の物件を探したのだが、どこも隣にすぐビルがあるとか空が見えなそうといった具合でダメだった。港区の、リビングからレインボーブリッジが見えて寝室の窓からは空が広がるロケーションとは、しょせん同じにはならないのである。そんな折、弁護士の先輩である女性が「近いとダメだよ。ある程度離れていないと仕事をずっと引きずることになる」と助言してくれた。正解である。後にストーカー事件を扱ったとき(被害者が顧問先の関係者だったので引き受けざるをえなかった)、自宅は知られていないことで、気持ち的に楽だった。当事者は遠隔地の人でもあり、電話では事務所に押しかけると言いはしたものの実際来られることはなかった。ストーカー事件に限らず、ストレスの多い事件を抱えている弁護士は大変だと思う。

弁護士関係の雑誌は、購読をしているのは『判例時報』のみなのだが、週に何冊も配達されてくる。ドットコムなどのメールも来るし、ざっと目を通していると、結構ためになることもある。いわく、弁護士の仕事は3つある。1つ目は事件(仕事)を取ること。2つ目はその仕事を遂行すること。3つ目は報酬を取ること。なるほどね。そんな風に分けて考えたことがなかった。勤務弁護士であれば事務所から給料を貰えるが(もちろん事務所は仕事を取ってこなければならない)、それ以外であれば仕事を取ってこないことには始まらない。サラ金の過払い事件はもうとうの昔に終わってしまったし、それ以外の仕事を、例えばネットを通してのいわゆる一見さんで数を増やして引き受けても、忙しくなるだけで、それが実入りになるかと言えば、もちろんそうはならない。だいぶ前だが、第一東京弁護士会綱紀委員会で一緒になった弁護士が、時間給15000円で10時間、15万円になるが、依頼者が精神病院に入ってしまい、払ってもらえない、と言っていて、びっくりしたことがある。

国会議員を経たからであるのは間違いなく、どれだけ感謝しても感謝しきれないのだが、顧問料だけで事務所の維持費を回していける態勢が最初から実現した。単発の事件も紹介者を通したものばかりなので、報酬の取りっぱぐれを心配したことはない。私が心配していたのは唯一、仕事の遂行だったのだが、検事からあっさりと弁護士に転職した先輩男性いわく「雛形がいっぱいあるし、それは全く心配がないよ」。そんなに簡単かなあと思っていたが、ちょっと面倒な事件は信頼できる先輩弁護士に相談をするスタンスで大丈夫やってこれたし、この20年、ほぼ思ったとおりの成果が導けている。一件、変な裁判官のお陰で敗けてしまったことがあるが(裁判は一審勝負で、二審で覆ることはめったにない)、真っ当な裁判官に多く当たったのは僥倖だった。そうそう、昨年末、なかなか払おうとしない依頼者に初めて当たり、そう言えば昨年初めにも一件あったのを思い出した。どちらも世間的には絶対的な信頼のある職種だが、やはり人によるのだなあ。

非弁提携(弁護士法違反である)で逮捕される弁護士のニュースはよくあって驚きもしないが、先般の弁護士は86歳とあって、さすがに唖然とした。本来は悠々自適の引退生活を送るべき年齢なのだが、弁護士に年金はないし、もし貯蓄をしていなければ、食べていくために弁護士業にしがみつくことになる。もちろん事件を依頼してくる人もいないので業者頼みのいわゆる名義貸しをしているわけだ。悲しい生き方だなあ。弁護士連合会毎月発行の『自由と正義』の末尾には全国の懲戒処分情報が載るのだが、時々元検事や元裁判官の名前に出くわす。私のかつての上司が2人載り、うち1人は3度も名前を見た。元同僚の名前も何度も見た。第一東京弁護士会の綱紀委員会に4年+懲戒委員会にも4年いたが、依頼者や相手方などが申立てをした事案はまずは綱紀委員会にかかる(ここはいわば検察的な立場である)ところ、そこで関係者を取り調べてほとんどの事件は落とされて、懲戒委員会に行く(裁判所に対する起訴のようなもの)のは40件に1件程度に過ぎない。つまり懲戒委員会で審理されているのは、ずば抜けた非行が対象なのだが、そのほとんどは「戒告」で済む。

問題はそれ以上の「業務停止」処分である。業務停止になると受任裁判も顧問先とも手を切り、事務所の看板も下げなければならない。一番短い1ヶ月だと、次の裁判は1ヶ月以上後だったりして辞任する要がなかったりするが、もっと長くなればそうはいかない。事実上業務が出来ないのだから、おまんまの食い上げだ。もともと困っているから変なことに手を染めたのだから、結局その停止期間中にまた何かやらかして発覚し、どんどん停止期間が長くなって(~2年)、その次は「退会命令」、究極は「除名」である。弁護士会費の滞納で退会命令になる弁護士もたくさんいる(弁護士は強制加入団体である)。たかだか100万円程度のお金を、親や知人が立て替えてくれないのか。せっかく弁護士になってこれではあまりに惨めすぎるし、そもそもこれからどうやって生きていくのか。40年前は2万人しかいなかった弁護士数が今や5万人である。反対に事件は増えていない。年に1600人も司法試験に合格させて(私たちの頃はずっと年500人を切っていた)、その後どうやって食べていくのか。衣食住足りて礼節を知る。弁護士になりたいという人はちゃんと今後の見通しを考えたほうが良いと思うのである。

弁護士は自由業で、飢える自由もあるが、時間など自分でやり繰りできる自由もある。そもそも社会正義に貢献できるので、素晴らしい職業であることは間違いがない。ただ、弁護士が収入の多寡を競い合うようになってはいけないと思っている。お金を稼ぎたければ弁護士ではなく、ビジネスをやればよいのである。弁護士なのにお金が目的になるのは、本末転倒である。余裕のある生活をして、余暇は体の健康、頭の鍛錬、幅広い教養を身につけることに使うべきだと思っている。法律知識だけであればAIのほうがもはや上ではないのだろうか。人間が法律を扱うということの貴重さは、人間性の裏付けがあってこそである。

先週の今日取材に応じて、原稿が送られてくるのを待っているのだが(そのために、その後もいろいろ調べた)、来ない。一昨日夕方の別の取材も私のコメントが送られてくるはずなのだが、それもまだ来ない。まあ、いいか。私が趣味として今嵌まっているのは(大相撲はもちろんだが)バッハである。バッハのインベンション2声15曲は中学生の時に弾いたので楽勝かと思いきや結構難しく、ようやく終わって3声15曲に移り、そのあとフランス組曲全6曲を終えてイギリス組曲に移っている。これが終わればパルティータか平均律に進んで、一応のピアノ(その頃ピアノはまだなかったが)楽曲をすべて終える予定である。バッハはどの楽曲も建築物のように美しく構築され、弾いていて大変心地が良い。次の時代の古典派はモーツアルト、ベートーベンと好きだが、実は私はショパン、ドビュッシーなどが好きではない。ショパンと同じロマン派でもリストはとても好きで、ことに『ラカンパネラ』や『マゼッパ』を綺麗に弾けるようになりたいと思っている。

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三菱UFJ銀行の対応に頭に来ています

頭に来ることは世の中、ちょくちょくあるが、昨日来た銀行員の対応ほど、頭に来たことはない。これを上回る出来事は、この後起こらないだろうと思えるほどに。非常識の極みである。

私は21年前(平成16年7月)今の事務所で弁護士を開業し、以後ずっと同じ所で仕事をしている。ドイツテレコムが引き払ったこの場所に一目惚れし、即決で契約したのは、その2ヶ月前の5月だった。その時点での勤務先はもちろん参議院である。事務所用の口座を開設しなければならないが、事務所に近い所の大手では他にみずほもあるものの、みずほには30年以上前から口座を持ち、収入も支出もほぼこちらで賄っているため(定期もある)、三菱東京UFJにしただけのことである(その後銀行名から東京が抜けた)。弁護士法人ではなく個人の事務所なので、口座開設の届出はもちろん、個人の自宅である。それは港区にあり、以来こちらも同じだし、電話番号も変わらない。とにかく個人情報としては超シンプルなのである。ただし、自宅(特に電話番号)はほぼ開示していないし、それは携帯も同じである(携帯番号は国会議員になる少し前に作って以来26年変わらない)。

以来この銀行・支店では純然事務所用の口座と、余剰金を移す個人口座と、その後に弁護士会の要求で作った弁護士の預かり金口座と、3つの口座がある。本意ではないが、少なくとも事務所関係ではどれだけお金があるか把握されているため、いつの頃からか、投資その他の勧誘に担当者と称するものが来訪するようになった。もちろんその前に事務所に電話があってアポを入れるのである。3年ほど前だったか、新しく担当になったという女性Kが「ご挨拶に伺いたい」と言ってきたのだが、それがなんと自宅の留守電であった(こんなことは初めてだ!)。自宅はもちろん日中不在だし、留守電は無機質の声である(事務所留守電は知人の女性に応答を入れてもらっている)。それが何度か繰り返されて頭に来てしまい、銀行に電話をしてその旨伝えた。あ、すみません…。元銀行員の友人にこの呆れた話をすると、「それは相当出来が悪い。かといえ、なかなか銀行も首には出来ないからなあ。担当を変えてもらうようにしたら」と言われたが、それも面倒なので、ついそのままになっていた。それからは事務所に電話があり来訪する際にはモルガンスタンレーの担当者も同行している。これで済んだはずだったのに、先月末、再び自宅への留守電である! ご丁寧にも「木曜は大学で不在だと分かっているのに電話をしてしまいました。また掛けます」。いい加減にしてよね。また連日の留守電があるのだろうと恐る恐る帰宅したら、数日後には事務所のほうに電話があった。自宅に留守電があったよ、と言うと、あれっ、間違えました…(自宅に掛けたという認識もない)。しれっとしている。まあそうだろう。それが大変なことだと分かる人であれば、そんなことはしない。

結局担当者を変えてもらうことになり、昨日、新しい担当者を連れて上司とやらが事務所に挨拶に来た。ここからが本題である。上司(支店の課長)も新担当者も女性だ。もちろんまずは謝罪をするはずなのに(それ以外に何の用がある?!)徹頭徹尾謝罪などなく、頭を下げることも全くなかった。いわく「銀行には自宅でのご登録を頂いています」。当たり前だ。会社ではないのだし、自宅での登録以外何があるというのだ。「で、この事務所は3番目です」「はあ。どこが2番目なんですか?携帯は知らせてませんよ」「携帯ではありません」「はあ、じゃあどこですか? 私の連絡先は2カ所しかないですよ」。そうしたら「調べます」とどこかに電話をしている。新担当者の若い女性が、私にその書面をそっと見せてくるので見たら、2番目の連絡先はどことも書いていない。「これ、どこ?…ああ、この電話番号は参議院ね。呆れた。参議院は辞めて弁護士を開業しているのだから、これは連絡先として存在しないじゃない。じゃ自宅が留守だったら、ここに電話をしていたわけ? これまでの担当者はすべて事務所にしか電話してきていませんよ」。この書面は、察するところ、最初登録するときに勤務先連絡先も書くから当初は参院だったので、それを入れた。そしてそれはなくなり、新たな勤務先は今の事務所なのに(21年)、何の考えもなく順番に登録をしたうえ、「登録先の変更届が出ていないのですから、自宅に掛けることになります」と宣ったのだ! 「うちの顧客には自宅しかない方もたくさんいますから」だって!? 

あまりに呆れてしまって、対応の言葉も出てこないくらいである。登録先の変更届って、自宅は変わっていないのだから、一体何を出すのだ? 日中は不在ですから、一番は勤め先に電話をして下さい、などという当たり前のことを、いちいち届を出さないとやらないというのか。この銀行以外、どこもそんなバカなことを言った所はない。それにこれまで一度もそんなことを言わずにおいて、自分たちが失敗を重ねた挙げ句に急にそんなバカな弁解を出してきたのである。実際K以外は事務所に電話をしていたし、誰も自宅になど来た人はいない。本人が捕まらないとどうしようもないのだ。「お宅ら、役所以上にお役所的なことを言ってるんですよね」と苦笑してやったが、全く通じない。とにかく変更届を出さないアンタが悪いんで、自分たちには何も非がないというスタンスを、決め込んで来訪してきたようだ。そう言えば、当初、30分欲しいと言っていたなあ。まさかあ、時間給で生活している弁護士が、そんなつまらないことにそんなまとまった時間を使うはずないでしょ。5分だって、勿体ない。

この課長は、とにかく自分は正しくて相手が間違っているとのスタンスだ。根っからそういう性格なのだろうね。自分の立場も分かっていないし、仕事では使えない、私的であれば付き合いたくない人間の筆頭である。K以外の担当者は誰も自宅に電話をしていないということのほうが不思議なくらいであるらしい。じゃあ、引継ぎでやっていたということかしら…?と呟いていたが、そんなイロハ情報を引き継がずに何を引き継ぐというのだ? 口座には弁護士の預かり金口座まであり、弁護士業であることは誰にでも一目瞭然である。それを自宅に電話をして当たり前、なのか? ちなみにその問題の書面には自宅の住所もきっちり書いてあるのだが、Kはこれまで一度だってそんな所に行ったことはないのに、昨年末にもまた電話をして、あれっとも思わなかったのだ。銀行員とか社会人としてというレベルではなく、普通の人間ではありえないレベルである。

そんなレベルはKだけかと思っていたら、なんとその上司までそうなのだから、これは組織自体の問題である。上記の元銀行員の友人に「頭にくるから支店長に言ってやろうかしら。もっと上の人も知っているから、そうしようか」と言うと、「ううん、それは時間の無駄じゃない。それらも同じような発想のはずだよ。小さい所だったら、そんなことをしていたら潰れてしまうが、大きな所なのでふんぞり返ってるんだよ」。本当に、こんなにエラそうな人は見たことがない。なんのために、なんの得があって、そんなにエラそうにしてるの? 偉い人はたくさん知っているが、エラそうな人は一人たりともいない。

サービス業というのは、相手が悪くて自分たちに非がなくても謝らないといけない職種である。今回の一連の経緯で、客である私には全く非がないのに、余計な時間まで取らせて、一片の謝罪もなく、登録変更届?を出さない客が悪いのだというスタンスなのだ。これはいちばんやってはいけないことだろう(と友人も呆れていた)。このうえは、投資してしまった金額を損をしないように回収し、それ以外は一切この銀行とは付き合わないと決めた。連絡も勧誘も不要です。弁護士業についてはこの銀行口座を変えるわけにはいかないが、それだけの付き合いだ。こんな不快なことになると分かっていれば、最初からみずほにしたのだが(支店は違うので)。

三菱UFJ銀行といえば、なんといっても貸金庫事件である。容疑者はこの度来た課長と同年代だろうか。貸金庫から行員が数十億円分?を盗み、それが何年もばれないなど、ありえないことである。貸金庫の信用ががた落ちし、他の銀行は怒っていることだろう。金融庁の厳しい処分が必須である。とにかくこの銀行は組織のガバナンス(などという大それたレベルではないにしろ)がなっていない。どなたかこの銀行の上の方、きちんと事態を把握し、謝罪をして下さい。一事が万事。他の顧客も相当怒っている方々がいるはずである。

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