大外れの大雪予報でした…

この1月6日、予想外の大雪(積雪10センチ)になって、大きく非難された故だろう、気象庁は今回早々と大雪予報を出してきた。いわく、10日(木)から降り始め、東京23区でも積雪10センチ超え…11日(祝)は路面が凍結して危ない…外出は極力控えるように。

9日(水)タクシーに乗った際、運転手に何気なくそう言ったら、渋い答えが返ってきた。「そんな予報を出してどれほどの影響があるのか、気象庁は考えていないのでは…。悪目悪目に言っておけば非難はされないだろう、もし降らなかったら良かったねくらいなものだと」。ああ、確かに。確信に満ちた予報を受けて、交通機関は早々と運休を決めたし、飲食店は軒並み予約キャンセルだし、会社も社員もできるかぎり在宅勤務に切り替えた。誰だって安全に帰宅したいし、すってんころりんと転びたくはない。

私もその一人。10日は自宅テレワークにするべく、9日夜にはいろいろなものを持ち帰ったし、大量の食料も買い込んだ(一体、何日籠もる気だ?(笑))。電話もメールも転送しているので、家にいても大して困りはしない。贈呈された本など溜まっているし、ゆっくり読めるかと思っていたが、そんなに暇でもなかった。思い出したように窓から外を見ていたが、午後になってもみぞれ程度だ。あれ、遅れている…きっと夜には降り出すだろう。あれだけ大々的に言っておいて、まさか、空振りなんてことはないだろう。11日朝目が覚めて、窓の外を見る。一面の雪景色が広がっている…はずが、あれ、何もない。快晴である。こんなの、あり? これじゃ降る降る詐欺…だ。

一体何を根拠にして、あれだけ確信を持って大雪予報をしていたのだ…?! 降らなくて良かったねと言っている人も周りにいるが、それは脳天気というものだろう。タクシーなど交通業界はじめ様々な所で、怒っている人、損害を被った人、多いだろうなあ。こんないい加減な予報をしていると、そのうち狼少年になるよね。間近の予報がこれほど当たらないとは知らなかった。であれば地震予知なんてもってのほかである。

でもって、連休の谷間の今日は事務所に出ている。昨日に引き続いて快晴である。寒くなんか全然ない。実は昨夜、スマホのwi-fi表示が消滅していることに気づいた。タブレットも同様だ。パソコンを起動したら、メール・ネット共に不通である。wifiに繋げようとしたが、いつもと違って、うまくいかない。見たことのない表示まで出てきて、埒が明かない。仕方がないので、パソコンに詳しい知人に電話したら、ルーターが故障したのではないかとのこと。もうだいぶ古いはずだと。ええっ…!このままでは自宅テレワークが全く出来ないよお。大変。有り難いことには今日夕方、ルーターを買って家に来てくれることになった。私もそろそろ事務所を出なくては。

という次第で、昨夜来、スマホ・タブレットのネット検索が出来ない。自宅パソコンも使えないということが、どれほど不便なものか、思い知った。それらなくして生活できないほど、今や必需品もいいところだ。テレビが見れない、ラジオが聴けない、のであれば、おそらくそれはそれだけのことだが、パソコンやスマホはもはや完全に生活の中心に位置している。日頃当たり前に思っていることの有り難みが、何か起こって初めてのように、身に染みる。健康にしろ人間関係にしろ、そういうことはきっと多い。

明日はモーツアルト協会の例会である。このところ例会は雨続きで着物が着られないでいる。明日も雪予報だそうだが、あまり予報に惑わされないでおこう。予報はあくまで予報であり、悪目に言っていることもよく分かった。着物の準備はもうした。冬に暖かい結城紬を着るつもりである。

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やり切れない訪問診療医殺害事件について思うこと

小堀鴎一郎(森鴎外の孫)という医師の、NHKドキュメンタリー番組を見たことがある。東大卒後、東大などで食道癌の専門外科医として40年間、医療に携わっていたが、65歳で定年退官し、知人病院方で訪問診療に携わるようになった。そして13年…そのとき80歳。自ら車を運転し、あちこちに気軽に出かけていく。いたく感動したので、その著書『死を生きた人びと──訪問診療医と355人の患者』も読んだ。

高齢者の訪問診療・在宅医療というのは、普通の医療と違い、治せない医療である。死なせる医療。いずれは避けられない死に対して、本人及びその家族にいかに同伴してやれるか。そこに最も求められるのは、共感できる人間性であろう。優しさだけではとうてい務まらない、果てしない責任感とエネルギー、強靱な精神力が必要とされるはずである。その意味で、理想というべき44歳の優秀な医師が、理不尽に命を落とされた。昨年12月に亡くなられた大阪の医師といい、やり切れない事件が続く。

もともとトラブルメーカーであった犯人66歳は、92歳母親をひとりで介護していた。母親はずっと寝たきりで意思の疎通もままならなかったという。実際よくある話だが、親の年金が生活の糧では、とにかく生きさせることが死活問題となる。もちろん92歳はいずれは終焉を迎えるが、怒りの矛先を病院関係者に向け、線香を上げに来いと呼び出し、最初から医師らを殺害予定で、猟銃を準備し、催涙スプレーも用意したうえで、心臓蘇生をして生き返らせろと無理難題を吹っかけた。医師はほぼ即死で、他1名は重態。

場所は密室であり、対象にしているのはまっとうな人ばかりではないから、暴力沙汰は数多く起こっていると思われる。病院も従来の経緯からして、暴力くらいは承知の上で出向いたのであろうが(だからこそ7人で大挙したのではないか?)、猟銃を持っていたのは想定外であった。しかも2つ。狩猟免許をいずれかの時点で手に入れたはずだが(私の祖父も猟をしていたので、猟銃を許可されていた)、許可は更新されるので、いずれかの時点で取り消されて然るべきであったと思われる。今後にも繋がることなので、この点の捜査が待たれる。

この事件の背景にあるのは、いわゆる8050問題。この男が引きこもりであったのかどうかは分からないが、50歳代の子供と80歳代の親。それが10年経つと6090問題となる。自らの家族も仕事もなく、親の介護しかすることのない子供。その親が死んでこの先いいことがない、自殺しようと考え、医師らを道連れにしようと思ったと供述しているらしいが、言っているだけで、自殺するつもりなどなかったと思う。きちんと捜査を尽くして起訴してもらい、裁判員裁判が開かれるのは2年後位になるだろう。犯人はできるだけ厳しく処罰されるべきだが、背景にあるこの重大な社会問題はそれとは別に考えなければいけない。

あまり注目されなかったが、池袋のホテルで、82歳男性が24歳女性に刺殺された事件も闇が深い。そんな形で殺されたのでは、被害者家族は恥ずかしくて…と思っていたが、現役の土木作業員で身寄りはないという。女性のほうは知的障害があり(障害者手帳もある)、知り合いの20代兄弟にうまく操られ、売春をさせられ、その金をほぼ貢いでいたという。女性には盗癖があり、男性がシャワーを浴びていたときに財布から金を盗もうとしてトラブルになり、持っていたカッターナイフで切りつけてそのまま逃走したようだ。兄弟に連絡して一緒に逃げようとして捕まった。兄弟の家は生活保護を受けているとのこと。いわば社会の低層にいる人たちが何かのきっかけで一緒になり、ある時間場所を共有し、それがこんな形で先鋭的な事件となった。実は事件にならないだけで、そうしたことはたくさんあるのではないか。社会・家庭から孤立し、それぞれ誰からも本当には必要とされていない。誰にも救いがなさそうだが、手を差し伸べることは出来ないだろうか。是枝監督あたり、映画の脚本でも書いてくれないだろうか。

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『妄想の激しい隣人に、大変困らされています…』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2022年2月号

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本当に寒い冬ですね。皇室問題を改めて考える。

新年の意識が年々薄れている。そもそも街の様子は変わらず、店はどこも開いているし、大して寒くもならない(今年は少し寒いが)。それ以上に近年はコロナ禍のおかげで、日捲りカレンダーのように毎日を無事にやり過ごすことが大事になって、月単位でもなく、まして年単位でものを考えることが後回しになったような気がする。

年賀状はこの度心を込めた手書きにして、数をうんと減らした。でなくても会社関係は虚礼廃止だし、よく会う人交信のある人には不要だし、親しくない人に手書きでは書けないので、自然減るのである。減らしてもちっとも困らない。ああ、良かった。そして新年早々授業内試験を終え、採点も成績登録も済ませた。論述式2問形式はずっと変わらず、模範解答と採点のコメントを書いたのをLMSにアップするのだが、追試験申し出期限が26日らしく、まだアップできずにいる。4月以降の来季の準備もいろいろやらねばならない。

新年の歌舞伎には例年、2回行っている。国立劇場は尾上菊之助一派の『南総里見八犬伝』、新橋演舞場は市川海老蔵の新作歌舞伎『ブペル』だった。後者は海老蔵の4役早変わりもさることながら、海老蔵の子供2人が日替わりで登場するのが売りである。この子たち、学校行けているのかなあ…と他人事ながら心配になることもあるが、そこは蛙の子は蛙で、根っから演芸が好きなのだろう。2人とも声量があり口跡がはっきりしていて、所作も美しい。私は嫌よ、遊びたいもの、稽古は嫌…と駄々をこねるようなことはしないのだよねえ。小さいながらに、自分たちのやるべきこと、置かれた場所(大げさに言うと運命か…)が分かっているのだと思うと、泣けてくるものがあった。

伝統芸能の世界は基本的に世襲である。その他先祖伝来の伝統や歴史を子々孫々に繋いでいくべき家は多々あるはずだが、そのトップであるはずの皇室が、公よりも私優先なのだということを、まざまざに見せつけたのが今回の内親王結婚騒動であった。であるのに、私の周りでも結構、「他人の家のことには関心がない(!)、あれこれ言う立場にはない」とか、「自由がなくて気の毒だ、結婚は自由じゃないか」と言う人も珍しくなく、かえってびっくりさせられた。それだけ「自由」が横行してしまっているのが戦後の教育というわけだろう。自由は規律・責任とパックになったものであるが、ただ自由気ままの世界になってしまっているのだ。

子供は勝手には育たない。親の背中を見て育つものである。親自身が皇室にいて窮屈だ、できたらこんな所にはいたくないと口で言い、また行動にも表しているのであろう。学習院に行かせなかったことに始まり、勝手な自由恋愛とやらに任せ、身元調査もしなかった(普通の家でもしているのに)。身を挺してその暴走を止めるような人もいない。そうした家風に子ら3人ともが染まっていると考えるのが自然である。今度は特別枠で進学高校に行かせるそうだ。親の見栄で(?)分不相応な所に行くのは本人にとっても不幸なことだが、これも誰も諫める人がいないのであろう。そういう人たちが、次の、そして次の次の天皇になる…? しかし、姉同様、嫌だといって放り出すかもしれないし、そもそも「日本の象徴」になって大丈夫なのだろうか? そういう教育がなされているとは、残念ながらとうてい思えないのである。

古来日本には女性天皇はいたが女系天皇はいなかったのは事実だが、皇室典範を改正して女性天皇を認めたとして、愛子さんが結婚してもその子供は男女を問わず天皇にはなれない、と言うのであれば、その場凌ぎの時間稼ぎにしかならず、皇室メンバーが少なすぎることへの救済措置にはならない。男系天皇しかダメと言ってみても実際いないのだし、ヨーロッパは女性も女系も認めているのだから、せめて男系優先だが女系も可としなければ皇室制度は続きはしないであろう。女性皇族が結婚して宮家を作るといっても(眞子騒動は、これに否定的な意見を多くしたであろう)、女系天皇を認めなければ意味のないことになるし、旧宮家の男子を戻すといっても普通に育った人たちを俄に戻したところで、一般国民には皇族とは認めがたいであろう(それに、真っ当な生活を送っている人たちであれば、自由な生活を捨ててまで来るとは思えない)。「あるべき姿」を前提に議論している人たちが多いように思うが、事実を前提にしなければ何も始まりはしない。

大相撲今場所は、貴重な御縁に恵まれ、3回も観戦に行かせて頂いた。こんなに面白い場所は久しぶりのような気がする。そのしわ寄せが来て(?)今日は朝から出勤している。まもなく、2年以上会っていない年下の友人が、転勤で上京したのをきっかけに手伝いに来てくれる。事務所の大整理を始めているので、力仕事が出来る男性は有り難い。夕ご飯はご馳走するわ、と言ったところ、まん防が出ているのでそれはまた今度、お酒と肴を持っていきますとのこと。私も今朝出るときにいろいろ作ってきたし、出来合いのものもあるので、夕方からは大相撲をテレビ観戦しながら久々の懇談に興じるつもりである。気の置けない友人は本当に有り難い。

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『妹が遺した不動産のことで頭を悩ませています…』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2022年1月号

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