検察官の定年延長、とりあえずは持ち越し

ひとまず、当面の危機は回避できたようだ。ほっ。撤回や廃案とは言わず、秋の臨時国会で再度丁寧に(!)審議するとのことなので、油断も隙もあったものではないのだが。

民意の力の大きさを知らされたことは望外の喜びだった。検察官の定年とか検察庁法とかはどちらかというと世間的にはマイナーな話であり、さほど世論の関心をよぶとは思っていなかった。元検事総長や元特捜部長が集団で法務省に反対書を出したことが大きく取り上げられたが(それが「異例なことだ」というのは、それほど異例なことを内閣がやろうとしていた故である)、それも膨大な数の反対ツイッターの支えがあればこそである。デモまで出た。コロナ禍による自宅謹慎の故にニュースに敏感になったこともあるだろうし、この1月末から燻っている黒川問題で、かなりの人が懐疑心を抱いていることも影響しただろう。もちろんその背景として、モリカケ問題、桜問題、そしてコロナ対応の不味さ等々、政府に対する不信が募っていることが大いにあるはずだ。

国会は先週、今週中(5月15日)に衆院内閣委員会で強行採決するとの乗りで、野党が要望していた森法務大臣の出席要請にも応じていた。しかしそもそも、なぜ重大な懸念を孕むこの改正条項が、今になって大騒動になったのか? 法案を閣法として提出するためには、自民党の各部会でまず審議をする(その前に委員会に属する与党議員らの元に所管庁からレクがある)。そのうえで党の総務会を通したうえ、所管大臣が国会本会議で趣旨説明をし、各委員会での審議にかかるのだが、その前になぜ問題にならなかったのか? 確かに党と内閣の関係がずいぶんと様変わりをし、以前は部会での決議のハードルが高かったのだが、今は内閣から下ろしてくるのをただ追認するだけに成り下がっているとは聞いているのだが(内閣に属さない限り、議員でいるだけでは議決の数にしかならないわけだ)。

衆院ホームページを見て分かったことは、この改正案について、主を国家公務員の定年延長とし、検察庁法改正は刺身のつま程度の扱い、もちろんこの度の大問題になった幹部についての内閣の個別定年延長については何の記載もないのである! いわゆる束ね法案として国家公務員法との一括審理で自民党の内閣部会に上げたが、検察庁法についてはほとんど説明もなかっただろう。実際のところ法案をきっちり読みこむ議員も少ないし、たとえ分かったとしても、へえっで終わっていただろう。ようやく国会での内閣委員会審議で野党が異論を唱えたというわけだ。そういう、ある意味こすいことをやるのが役人の性でもあるのだが、肝心の法務省はいつこの法案を知ったのか。知らなかったとすれば暗愚だし、知っていながら何も言わなかったとすれば意気地なしである。黒川問題での対応に鑑みれば、内閣の一員である法務大臣の「鶴の一声?」で終わったのは想像に難くないが、他の公務員とは違い法曹資格があり、然るべき地位にいる者は職を賭してでも反対すべきだと思うのだが。そんな気骨ある者がいないとは、情けない限り…。

以前にも書いたが、2014年に安倍内閣の下、内閣人事局が発足し、審議官以上の高級官僚の人事が官邸主導で行われるようになった。そのことが、官僚が内閣に隷属し、内閣の意向を「忖度」するようになった根源である。その局長は元警察官僚であり、警察と経産省に引っ張られている内閣でもある。その目からすれば、しょせん検察も行政機関であり、他の国家公務員とことさら別異に扱う必要はないということかもしれない。従来内閣は、法務検察人事にはケチをつけなかったのだが、その一環としてか、ここ数年あからさまに異論を唱えるようになり、検察トップもだんだんと内閣に逆らわないようになってきたのかもしれない。結果、件の黒川氏は官房長が長く、事務次官も長く、東京高検検事長にも居座り、挙げ句は法に逆らって検事総長になろうとしているのである。

内閣による幹部検事の定年延長の基準が示されていない、今度は丁寧に示して、時間をかけて審議して、などと言っているが、事はそんなレベルの問題ではない。そもそも検察官の定年を65歳以上に延長しなければいけない理由(立法事実)などないのである。内閣へのへつらい(?)次第で総長の定年が3年も延びれば、総長になれない人が2人出る。そもそも検察が政権にへつらっていると思われること自体、世間の信頼を損なっているのである。となると、有為な人ほど検察官にはならない(ちなみに、裁判官は最高裁と簡裁判事が70歳、それ以外は65歳と決まっている)。法と正義に従って、国会議員や大臣の違法な行為を摘発できるというのが検察官任官の醍醐味であるし、それ故に国民も信頼できるのである。

次期国会に持ち越すというのは、もともとの発端になった黒川人事を諦めていないからではないか? 少なくとも、あの閣議決定を撤回すると言わないためには、その後付けとなったこの改正条項を意地でも維持するしかないのではないか。張本人の黒川さん、そろそろ表に出てきて、あなたの法的見解を明らかにして下さいとの書き込みに、大量の賛同者が出ていたが、私も本当にそう思う。いつまでも引っ込んでいないで、言うべきことがあればちゃんと言って下さい。ないのならば速やかに辞めて下さい。心からそう思っている。

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検察庁法改正(定年延長)に思うこと

黒川東京高検検事長の定年を延長した閣議決定(今年1月末日)が違法であることは、これまで縷々述べてきた通りである(「違法の疑い」などではなく明確に「違法」である)。検事総長以外の検察官(検事・副検事)の定年は63歳であるから、彼は63歳になる今年2月8日の前日には検察庁を去っていなければならなかった。しかし、違法に検察官に留まることすでに3ヶ月以上。その間の高給は不当利得であり、法律家である彼は違法性を知る立場にあったので、国家に利子をつけて返還すべきものである(民法704条)。内外からの批判を予想しなかったとは思えないが、毎日が針のムシロで、本音ではもういい加減辞めたいのではないかとも思うが、辞めないところを見ると、何か官邸側に弱みでも握られているのか、と勘ぐりたくもなってくる。

ここに来て、このコロナ騒動の真っ最中に、それこそ不要不急でもないのに、国家公務員法改正(65歳までの定年延長)に併せて、検察庁法改正を国会が一括審議していることに、弁護士会はじめ各方面から凄まじい批判が寄せられている。国家公務員の定年を65歳にすること自体は、年金支給の開始年齢と併せて私企業も65歳定年が奨励されていることからすれば、異論は少ないであろう(もちろんこのコロナ禍で民間の雇用情勢がおしなべて悪化していることからすれば、公務員だけいい思いをしてとの反感は避けられないだろうが)。国家公務員が65歳になるのであれば、検察官の定年も63歳から65歳に引き上げるのは当然であろう。ただ次長検事や高検検事長、地検検事正など幹部は63歳でポストを退くとの案は従前より作られていたのである(ポストが詰まってくるので、民間でも60歳になると再雇用として給料が下がる所が多い)。

ここで余計なことを言うと、幹部から平検事に降りてまで勤務を継続したい人は、はっきり言って皆無である。検事正から公証人(70歳定年)というコースはよくあり、その場合、大体60歳位までで、いいポストが空いたと声がかかって辞めていく。検事長以上には公証人コースは用意されないが、弁護士になれば、元の肩書きだけでずいぶん役職も来て、まさに左団扇である。故にこの定年延長は、幹部にならない平の検察官(多くは副検事)を対象にしていると言ってよい。

今回大批判を起こしている改正条項は、そこではない。幹部について、内閣が「公務の運営に著しい支障が生じる」と認めれば、最長3年まで延長できるとの特別条項が加わった点である。内閣が、自分たちに都合が良いと考えれば(まさに黒川氏がそうである)、例えば、65歳の検事総長を最長68歳まで延ばして務めてもらうこともできるようになる。そうなれば、検察の独立性は著しく害される。検察は行政機関ではあるがその性質上準司法機関であり、不偏不党が原則であって、内閣の顔色を見て事件をやるかやらないかを決めるのであれば、否、そうではないかと国民が疑うこと自体、検察に対する信頼が地に落ちてしまうことなのである。

と言うと必ずや、選挙で選ばれない検察官にそもそも強い権力を持たせすぎている、国民が直接選ぶ国会議員にこそ任命権があるのは当然であり、それが民主主義というものだ、との説が唱えられる。今回、この改正案に憤慨するマスコミの友人から「米司法省はトランプ大統領の元補佐官フリンの虚偽証言の起訴を取り下げた。当然大統領指示によるもので、オバマ前大統領はこれに『法の支配が危機にさらされている』と強く警告している。今回はこれと同じではないか」とのメールがあった。言わんとすることは分かるが、アメリカと日本は同じようには語れない。アメリカは、トランプが嫌だと思えば次の選挙で対立党の候補者を選べばよい。そもそも検察官も選挙で選ぶ国なのだし、裁判官も党派が鮮明だ。すべて選挙、つまりは国民が選ぶ前提で成り立つ国と、日本を比べるのは違うのではないか。日本では、結局選挙をすれば自民党が勝ち、首相となるその総裁は党の論理で決まる。もちろんそれを変えていかなければ、二大政党にしなければ、といって選挙制度も変えたけれど、小選挙区ではその弊害のみが目立ち、肝心の政権交代など起こりようもないのが現実である(民主党による、失われた3年の記憶が消えないのも大きな要因である)。

もとの改正案に存在しなかった(検察に定年延長という発想はない)この特別条項が加わったのは、いつなのか。勘ぐれば、黒川問題に併せて、その違法性を薄めるべく、後付けで作り、急遽通すことにしたようにも思われる。今回の閣議決定も(黒川氏を総長にするために)早めに辞めてくれとの官邸側の要望を稲田氏が蹴ったことによる、苦渋の産物だった(稲田氏は慣例通り、総長就任2年になる今年7月に勇退し、後任を林氏にしたかった)。その違法性を後付けで薄めるとともに、今後も検察の独立性を薄めるために(?)国家公務員法と一括して内閣委員会で審議し、野党が要求する法務大臣出席も拒んだままである(珍答が繰り出されるのが目に見えているからか?)。国家公務員法はともかく、大きな問題を孕む検察庁法改正は、性急になされるべきではない。もちろん定年延長の特別条項を除いて元の形にするのであれば、とくだん問題はないのだが。

当の黒川問題に話を戻すと、この改正案が国会を通過したとして(今週中に衆院を通過させる予定であるらしい)、施行は2022年4月1日であるから、黒川氏個人の検事総長就任期間が68歳にまで延びるわけではない。現総長の稲田氏がこの7月に勇退すれば、内閣は待ってましたとばかり黒川氏を検事総長に任命するだろうが、その定年は彼が65歳になる2022年2月7日までだからである。内閣の圧力には屈せず、稲田さんがこの7月に勇退しなければ、ここまで大きな批判を呼び起こしている黒川氏の定年をまた半年延ばすなどは、さすがの内閣もできはすまい(半年延ばしたところで、稲田さんの定年は来年8月13日まであるのだ)。

さて報道によると、河井衆院議員(前法務大臣)の捜査が進んでいるという。買収は実務上、公示期間中のものに限っているが、法文にそう書かれているわけではないので、その前のものでも可能である。ただその場合、現金授受の趣旨が曖昧になりやすい。報道によると、参院選挙前の4月の地方統一選挙の際などに配っているものが多いらしく、となると選挙の寄付として貰った云々、受け取る側も買収の認識はなかったと言いやすい。買収は誰もが知る重大犯罪なので、大見得切って渡す受ける、とは考えにくいのである。それをクリアできるのか? 県議などの公職者では、前科なり公民権停止がかかってきて、被買収で起訴されると、当然ながら失職するのである(公職選挙法は刑訴法に新しく導入された「司法取引」の対象犯罪には入っていない。350条の2・2項)。もし買収としてやれるということになると(額の多寡に限らず)逮捕するのだが、国会開会中のため、逮捕許諾請求が必要である。その際、法務大臣が指揮権を発動すれば世論が大いに沸き上がって、内閣は総辞職になるのではないか? 今、検察対内閣の存亡をかけた?戦いがなされているように思われる。

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大型連休に入ったけれど‥(Midnight in Broadcast Daylight の読後感想)

今月25日(土)から5月6日(水)まで、中4日を休めば12日間の大型連休である。気候はいいし、例年ならば嬉しいことかもしれないが、今年は、海外はもちろん、近場の観光地にも行けない。庭付きの大きな家ならいざ知らず、大人も子供も狭い家に閉じこもっていては、心身共に不健康なこと、この上ない。ストレスが溜まって、互いに無用な喧嘩が始まり暴力沙汰も起こるだろうから、子供が家出して変な事件に巻き込まれなければよいけれど‥。老人はデイケアに行って人と話すこともできないし、施設入居者も面会を拒まれ、いずれにしてもこの間に認知機能が衰える可能性が極めて高い。大体が人との接触8割減の要請なのだから、友人知人との交遊が希薄にならざるをえないのである。会食は、3月25日が最後だった‥。

大学は当初、常より2週遅らせて4月20日開始とのことだったが、緊急事態宣言を受けて5月11日開始となっていた。最近、その最初の2回は遠隔授業にするので、第1回目の録音その他を5月7日までに送るようにとの通知が来た。なにせ初めてのことなので、大変だ。私よりもっと操作に慣れない年輩の方もいるはずで、嘆いておられることだろう。聞くところによると、早々と前期授業はすべて遠隔事業にしてしまった大学もあるそうだ。

学生はみな戸惑っているだろう。ネット環境として、パソコンをきっちり持っている学生は一体どれほどいるだろうか。スマホしかない学生が多いと思われる。その小さな画面でレジュメを見、かつ(これまで会ったこともない)先生の、録音された言葉を聞いて、どれくらい理解できるだろうか。ラジオの語学講座をイメージせよと先輩教授が教えてくれて、グッドアドバイス!と喜んでいたら、語学講座では手元にあるはずのテキスト(教科書)が5月末位にしか入手できないだろうというのである。あれ、まあ。嘆いていても仕方がないので、始めるより外はないのだけれど。

しかし、かなり多くの学生にとって今の状態は、まともに学べないということもさることながら、生活に直結する死活問題となるだろう。自らのバイト先がなくなる。仕送りを当てにしていた親の収入もまた、自営業だったり非正規労働者だったりしては、見込めない。学費だけは奨学金で何とかなるとしても、その余の生活費がゼロとなっては、学生を続けることも難しい。きっと休学ないし退学も増えるはずだ。今回の緊急事態は、ひとり外で働けない大人だけではなく、学生や子供も巻き込んだ大きな社会問題なのである。

毎夜その日の新感染者数を気に掛けているのだが、昨日は、13日ぶりだかに東京は70人余と、2桁になっていた。どうぞこのまま減ってほしい。そして、緊急事態延長などどうか、なしにしてほしい。もちろん、最も恐れるべき医療崩壊を考えれば、全面的な解除ではなく段階的解除にはなるだろうが、今の緊急事態状態をただ続けるのでは、社会が死んでしまう。

生命は経済(金)に勝ると言えば、誰も正面切って反対はできないが、金がなくては実際、生きていけないのだ。その日暮らしの人も多いし、それどころか、借金もみれの人も結構いる。金銭的保障はする、無利子で貸すとかいっても、国や地方自治体の財政も無尽蔵ではないし(国が潰れたら、どうなる?)、借金はいずれ返さなくてはならない。大学1年の時に読んで感動した、サマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』(悪女ミルドレッドに振り回される情けない男が主人公である)中に(私の記憶が間違っていなければ)「金は第6感のようなもので、それがなければ他の5感は働かない」「金がないのは命がないのと同じことである」との言葉があった。高邁な思想や、豊かな文化がなければ人間の生活としては寂しいが、金がなければ生きていけないのは現実である。

暇でしょうと知人が、Midnight in Broadcast Daylight という、日系アメリカ人家族の話を貸してくれた。戦前に広島から米国西海岸に移住した1世が父親(母親は広島からのいわゆる写真花嫁)、2世の子供5人は米国で生まれて米国籍を持つが、父親が亡くなった後困窮した母親に連れられて広島に戻る。うちハリーは姉と共に、心情的に馴染んでいる米国に戻るが、収容所に容れられ、米軍に志願して通訳官になる。激しい戦場に赴き、修羅場をくぐりながら、出世していく。一方、兄ビクターと弟フランクは日本で徴兵され、かろうじて生き延びる。広島に原爆が落ち、神戸に赴任したハリーはその秋、部下を連れてジープを駆って広島に行き、被災した母親の家を訪ね当てる。老いた母親は、急に訪ねてきた軍服姿の立派な男が、何年も離れている息子だと気づかない。視線がさまよう。ハリーが言う。「お母さん。〇〇(日本名)です。ただいま、帰ってまいりました」。

このシーンで、思い切り泣けた。もし、I`m home. だったらそれだけだった。この短い謙譲語に、親子の情、故郷への思いが図らずも集約されていると感じた。ノンフィクションである。ハリーとフランクはそれぞれ成功して、余生をハワイで暮らした。2人とも2015年死去。著者(ユダヤ系アメリカ人女性)は17年も日本で暮らし、ハワイ在住で2人をよく知り、多くの関係者に取材を重ねた。労作である。著者自身日本語に堪能なので、ご自身でどうか日本語版を出し、日本人に読んでもらいたい。世界中の人に読んでほしい。ナチのユダヤ人迫害には及ばないまでも、米国籍の2世も含め、ただ憎い日本人だからというだけで1万人以上を収容所に送り監視した、アメリカの憲法に違反する負の歴史を、アメリカ人もあまり知らないのだそうだ。こういう時代に比べれば、今は食料もある、家もある、表現の自由があり、徴兵制もなく爆撃もない。そう、もちろんあの時代と比べるのは僭越なほど、今は恵まれすぎているのではあるけれど‥。

あと、読みたい本があるのだが、遠隔授業の準備を無事に終えてから手をつけたいと思う。よく通っている区立図書館が3月末以降急に閉まってしまったのがちょっと痛いのだけど、まとめてじっくりと読書するのに、とても良い機会ではある。だが、それでもどうか‥来月6日までにしてほしい。

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『娘婿に貸したお金をきれいに返してもらいたい』

自由民主党月刊女性誌「りぶる5月号」

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ついに緊急事態宣言である

4月2日夜に緊急事態宣言が出る、21日間──との情報を、結構確かな筋と思われる所から受けたのは、3月末。東京がロックダウン(首都閉鎖)になるとの小池知事の言葉を、つい信じそうになっていた。もちろん冷静に考えて、日本ではそうした法的根拠はないのだが、デマの心理というのは恐ろしいものである。

4月最初の週末(4・5日)はまたしても自粛要請で、銀座はじめどこも百貨店が軒並み休業するなどし、人通りもなかったらしい。その翌週末も休業なので、百貨店に行くのはその後だわと思っていたら、なんと昨夕緊急事態宣言(5月6日まで!)が出て、今日からビシッと休業である。あ?あ、用事があったのに。こんなことなら、平日夜に行っておけばよかった‥。後悔しても、時すでに遅し。神戸にいた子供の頃、百貨店に連れて行ってもらうのは晴れの行事で、それはそれは楽しみだった。1ヶ月半も百貨店に行かない生活は、たぶん生まれて初めてのような気がする。百貨店に行っていろいろな商品を見、買い物をすることは、気分転換に最高だったと、改めて気がつく。

外出を控えさせて感染者数が減れば、前倒しで解除するだろうか? 否、解除して、もしまた感染者が増えれば非難が激しくなるから、たとえ減っても結局のところ、所期通りにはやるのだろう。反対に、延期は充分にありうると思われる。武漢では2ヶ月半の完全封鎖が効を奏したとして本日封鎖を解除するそうだが、結果、また増殖するなんてことはないのだろうか、心配だ。もともと中国では隠蔽はお手の物なので、本当に減ったのかどうか、そもそも疑わしい。

調停はもちろん、裁判も(身柄事件は別として)すべて中止になった。延期期日も現段階では決められず連休明けになるから、恐ろしく法廷が混雑し、夏休み返上になるのかもしれない。学校も閉校分の勉強が持ち越され、やはり夏休み返上かもしれない。大学では閉校中ネット授業を実施するとのこと、明日はその研修で大学まで行くことになっている。今年1月6日に最初の報道があった新型コロナウィルス(中国では12月はもちろん、11月にはすでに把握されていたと聞く)が、世界を大きく変えた。ワクチンなり特効薬が出来ることによりいつかはこの騒動は収まるだろうが、しかし様々な意味において、このコロナがなかった以前の時代にはきっともう戻れない。それくらいにこの災厄は凄まじい。

感染しない・させないために、「外出をせず3密を避ける」のスローガンの下、観光業界、小売業界、飲食業界(特にカラオケや夜の飲食業)の売上げはがた減りで、それはことに、規模が小さい自営業を直撃し、非正規労働者の収入の道を閉ざしてしまう。その補償を政府は様々に講じているようだが、財政は無限ではない。しかし宣言を出す以上、たとえ自粛要請でも基本的には強制に近いのだから、従う国民の苦しみを政治が分かち合うために、国会議員が歳費のせめて10%(できれば20%)を削減する案が与野党共々なぜ出ないのだろうか、不思議にすら思う。

自宅から出るなと言われても、狭い家に、仕事に行けない大人と学校に行けない子供がひしめき合っているのは、心身共に辛いことである。すでに事実上の1ヶ月が経過した後の、さらにまた厳しい1ヶ月となる。DVも増えていると聞く。収入が減った云々のやりとりで、夫が妻を殴って死亡させた傷害致死事件も報道された。2ヶ月という長い期間を、家族が揃って心身共に健康でやり過ごすというのは口で言うほど簡単なことではあるまい。互いの思いやり、社会の連帯意識を強く持ちたいと願うものである。

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