〜歴史教科書問題〜
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1.経緯 昭和57年、日本の歴史教科書が「侵略」を「進出」に書き換えたとの報が朝日新聞などに掲載され、中国・韓国が抗議してきました。実はこれは誤報だったのですが、これを受けて宮澤喜一官房長官(当時)は謝罪し、教科書検定基準の中にまったく異質で政治的な性格を持つ次の一項が付け加えられるに至ったのです。 (2) 自虐度を増す記述 史実として確実に検証されたとはいえない南京事件はおろか、96年には従軍慰安婦が大部分の教科書に取り上げられるまでになりました。従軍慰安婦問題に至っては、史実としての正しさ以前に教科書で教えることとして適当かどうかという根元的な問題があるはずです。 もちろんより公正な立場で書かれた教科書を採択すればいいのですが、実際はそうした教科書の採択は断然少数派なのです。もちろんこれには現場の意志が大きく働いているわけです(『歴史教科書を格付けする』藤岡信勝編 徳間書店 など) (3) 新しい歴史教科書運動 そして出来上がった歴史教科書は2001年春の検定は無事に通過しましたが、その以前、例によってまた「御注進」に及んだ者がいて、韓国・中国が激しく非難してきました。国会審議でも取り上げられたのですが、外務省当局答弁は「内政干渉にはあたらない」。 この教科書の採択には様々な方面から圧力がかかりました。2002年度には543冊(占有率0.04%)、2003年度には1.218冊(0.1%)、ごくわずかの教科書採択区で採択されただけでした。もっともこの教科書は「新しい歴史教科書」として市販され(扶桑社)、一般の人も読むことができます。私も購入して読みましたが、騒ぐほどではない、どうということのない内容でした。 (4) 中韓の歴史教科書 国の定めた教科書ではないのに日本国を攻撃するのはそもそも的外れですし、たとえ国定教科書であったとしても批判は内政干渉に当たるはずですが、もし万歩譲って内政干渉に当たらないとすれば、外交の相互性からして、日本もまた中韓の歴史教科書を非難すべきなのです。ただ言われるがままだからこそ、彼らも無理を承知で言ってきているところが大いに見受けられます。 2.あるべき歴史教科書について ヨーロッパ先進諸国とアメリカの歴史教科書(中学生段階)はすべて4〜5分冊、つまり日本の4、5倍あるといいます。古代史だけで一冊、20世紀だけで一冊(『歴史を裁く愚かさ』西尾幹二著(PHP研究所)、115頁以下。また『「親日派」のための弁明』金完燮著(草思社)250頁以下にはアメリカ人が韓国の歴史だけでもずいぶん詳しく学んでいることが分かって驚かされる)。 その当然の帰結として、固有名詞の羅列ではない複雑で深い内容の叙述となるわけです。例えば、仏教国ではないイギリスでどれだけゴータマ・シッダルタが詳述されているか、彼らが普通に勉強して得られる教養に日本人がとうてい太刀打ちできないことが分かって、ため息が出てきます。 (2) 現在の価値観から過去を判断するのは誤り 同じように平和がいいのは当然ですが、戦争は悲惨だ、殺人は罪だ、だからすべての戦争は間違いだったとしか見ないのもまた一面的な見方です。人類の長い歴史において侵略は当たり前に行われ、そして領土が拡大されてきたのです。戦いは嫌だからとじっとしていれば、国や部族とともに滅びた可能性が大でしょう。もっとも近代になり、戦争にもルールが求められるようになりました。侵略戦争は許されないながらも宣戦布告さえすれば国際紛争を解決するための武力行使は正当な戦争とされたのです。 産業革命を経て、ヨーロッパ各国は生産量を飛躍的に増大させました。そして、新たな生産材の獲得と消費先市場を求め、競ってアジア・アフリカ・アメリカを植民地にしていったのです。その過程でどれだけの原住民が殺され、貴重な文化が抹殺されていったか、そこには我々の想像を絶する残酷な歴史が存在します。列強にとって原住民は搾取と収奪の対象でしかありませんでした。 (3) 日本の近現代史の正当な評価が求められる その江戸末期、アメリカから黒船が来航し、開港を求めました(1853)。以後攘夷派と開国派が激しく戦った結果、68年江戸城は無血開城、明治政府が築かれます。以後日本は富国強兵をスローガンに列強に追いつき追い越せ、不平等条約を改正させます。とくに日露戦争の勝利は世界史の奇跡ともいうべき出来事であり、以後プロシアの「黄禍論」に代表されるように列強から危険視される存在になっていきます。アメリカもその頃から露骨に日本人移民を禁止し差別するなど、明らかに日本を敵視するようになっていきます。 そんな中、日本はやがて日中戦争に突入、これがアメリカ相手の太平洋戦争に発展し、敗戦を迎えてしまうのです。明治維新からわずか77年、疾風怒濤の歴史でした。 日本の選択肢としてはそのまま大人しく(?)植民地となることもできたのです。であればおそらくは中国も朝鮮半島も植民地となり、世界地図は今とはまったく違うものになっていたでしょう。今各国が独立国として存在するのは日本が存在したからこそであり、我々の先祖が決して植民地にはならじとの気概を持って切磋琢磨したからこそなのです。日本のお陰で多くの国が独立できたことはイギリスの教科書にも記述されているそうです(『歴史を裁く愚かさ』33頁。なお、以上の記述は『「親日派」のための弁明』金完燮著に負うところが大きい)。 (4) とくに朝鮮半島との関係について正当な評価が求められる 李氏朝鮮は国家の近代化をなおざりして王家の存続を図り、あまつさえロシアと手を組もうと画策したため、李完用ら近代化推進派は進んで日本と手を組み、保護国になる道を選択したのです。当時イギリス、アメリカ、ロシアといった列強が進出を図っていたこの半島では、英米もまた露ではなく日本が保護することを望みました。それら列強の利害が一致した結果、日韓併合条約(1910)は国際社会の認める中、適法に締結されたのです。 もちろん独立運動も起こりました。これを中止するよう1919年、李は民衆に以下のように説いたのです。「現在のように国際競争が熾烈な時代に、この3000里にすぎない領土と、あらゆるものが不足している1100余万の人口をもつ私たちが独立を唱えることがいかに虚しいことか。併合からこの10年間、総督政治の実績をみれば、人民が享受した福祉が多大なものであることは内外が公認するところだ」と。 たしかに創氏創名や言論の抑圧など、併合政策に過酷な一面があったのは否定できません。ですが、例えばイギリスのインド支配がどうだったか。インドは収奪と搾取の対象でしかないため、産業化の道は決して歩ませず、消費先のままに留めようとしました。イギリスがインド人に英国名を名乗らせ、わざわざ英語を教え、その皇族をインド貴族と婚姻させて一体化を図るなどおよそ考えられないことでした。 日本が朝鮮にこれだけ投資をし、教育とインフラを整備させ、産業を移入し、日本語を教え日本名を名乗らせ、あまつさえ皇族同士も結婚させたのは、まさに日本国の一部として扱ったからにほかならないのです。そうした正の面を評価することなく現在の価値観からのみで全面否定するのは歴史を誤り、その結果誇りのない国民を育てていくことになります。
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