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教育問題
[2002.3/27]

社会も国もそれを構成するのは「人」です。まさに人次第なのであり、教育の重要性はどれほど強調しすぎてもしすぎることはありません。
 日本が列強に侵食されずに済んだのは、江戸時代までに培った教育の力故だと言われています。全国津々浦々にまで寺子屋制度が充実し、一般庶民の子どもたちまで「読み書きそろばん」を習うことのできた日本の識字率は、当時から世界有数でした。
 その教育の力が戦後、揺らいできました。
 算数もろくにできない大学生、まともな日本語を使えない若者たち。「公」がなく、どこにでもすぐに座り込み、電車の中でも平気で化粧し、いちゃつく。援助交際、ネット犯罪、児童虐待……。社会全体のモラルが著しく低下し、日本が崩れてきた、このままでは将来どうなるのだろうか、多くの人が真剣に憂えています。

(1) ゆとり教育の弊害
  受験教育の反動からか、「ゆとり教育」が生まれ、ついに2002年4月からは学校5日制となります。教育内容も大幅に削られ、ますます学力が落ちていくことが懸念されます。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
 教育は訓練です。子どもの自主性を重んじて、などと言う人がよくいますが、判断能力が育っていない子どもに自主性などないのです。大人が好き嫌いで選んでいいのはすでに判断能力が備わっているからで、子どもに自主性を与えては甘やかしや我が儘を助長するだけです。
 教育は何であれ、すべて「模倣」から始まります。吉田松陰など昔の人たちは、もちろん意味も分からない子どもの頃から「四書五経」を暗記させられたといいます。リズムとして体得した言葉はいざ成長して意味が分かってくると、すっと血肉となって吸収されます。頭の柔らかい時にいかに良い見本を模倣できるか。個性や独創性などはその後に初めて育ってくるものなのです。
(2)まずは国語教育を
 

 数学者の藤原正彦さんが「小学校では一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数」と言っていますが、その通りだと思います。
 なぜならば国語力は、考える力そのものだからです。
 検事を辞める時、新任検事たちの指導をしていて驚いたのですが、多くがまともな文章を書けないのです。ここまで国語力が落ちているのかと唖然としました。一文に主語がいくつもある、接続詞がなくて前後関係がさっぱり分からない、自分で文章が書けないのでマニュアルから選んでそれをただ組み合わせる、等々。ほどなく気づいたのですが、事案を的確に表現する文章が書けないということは実は事案自体をよく理解していないということなのです。
 思考を表現するのは言葉であり、言葉を持っていなければ思考できないのです。

 面白い例を挙げましょう。
 日本語と韓国語は助詞の使い方はじめ非常に類似した言語ですが、相違点もあります。例えば、韓国語には受身形がありません。つまり「泥棒に家に入られた」「女房に逃げられた」「日本に占領された」という表現はないのです。「泥棒が家に入った」「女房が逃げた」「日本が占領した」という表現しかなければ、そのようにしか考えられません(呉善花著『スカートの風』)。
「思考」には感情や感覚も含まれます。
 日本語は形容詞や形容動詞の豊富な言葉です。侘び、さび、もののあわれ、たおやか、しとやか、しめやか、つましい、等々。そういう言葉を知っていてこそ初めてそのように感じることができるのです。敬語を使うから尊敬の念が生じるのか、尊敬の念があるから敬語を使うのか、これは鶏の卵の関係にあるといえるでしょう。
 言語は、ものの考え方と感性、つまり人と成り(人格)を作るものです。英語やITも大事ですが、それはその後のこと。人に何かの感想を聞かれて「えっとオ、別にイ」しか言えないのであれば、何語を知っていても無意味というものです。

(3)国家観を育てる教育を

   「教育基本法」改正の小委員会にも属しています。この法律制定は珍しく日本主導で始まりましたが、GHQによって「伝統の尊重」などが削除されました。それのみが原因ではもちろんありませんが、日本の伝統や文化、歴史教育など、国民としての教育がないがしろにされてきたのは事実です。
 どの国も教育の初めにおいて国旗・国歌を尊重させます。引きかえ日本では、国籍不明の自由人を作ってきた感があります。

 参議院の「学生と語る憲法調査会」でこんなことがありました。
「自衛のための戦争であっても反対」と言う女子学生に、私が「ではあなた自身が襲われたらどうするのか」と尋ねると、しばらく考えてからなんと「……私は身を捧げます」! 暴力反対、平和絶対の教育成果が見事に結実した結果なのでしょう。平和は理想の状態であって決してそれ自体が目的ではなく、戦争を含めた外交手段によって勝ち取るものであり、国は国民が守るものだという、世界では当たり前のことが日本人には欠如していることを如実に認識させられました。

[歴史教育書問題]
「日本の前途と歴史を考える若手議員の会」にも入っています。
 日本では、まるで韓国か中国の教科書のような歴史教科書が、1983年以降かなりの範囲の教育現場で使われています。
 
 各国それぞれにその当時置かれていた状況があります。日本が第二次世界大戦に突入した当時、世界の列強はこぞって次々と海外に進出していました。そういう時代に日本が大陸に進出した事実を捉えてただ、「侵略は悪だ」「戦争は悪だ」と責めるのは一面的な見方です。
 日本にはアメリカと戦う意思などそもそもありませんでした(ハル・ノートなどによって証明されている)。マッカーサーも後で「日本の戦争は自衛戦争だった」旨アメリカの議会で証言しているのです。
 民間人を狙った東京大空襲や原爆投下などは明白な国際法違反です。戦争は国際法上認められた外交の手段であり、戦勝国が敗戦国を裁く裁判などありえないのに、「平和に対する罪」なる事後法を設けてまで復讐裁判を敢行した、それが東京裁判の実態なのです(A級戦犯の起訴日は昭和21年4月29日、処刑は同23年12月23日。これがそれぞれ何の日か、述べるまでもないでしょう)。こうした客観的な事実をも教えなければ正しい歴史観は育ちません。

「新しい歴史教科書を作る会」による教科書(扶桑社)は韓国、中国から批判を受け、日本でも大きな問題になりました。問題の教科書は2002年度から使われるもので、2001年春無事に検定を通過しましたが、その後残念ながら様々な方面からの圧力を受け、ごくわずかの教科書採択区で採択されただけでした。
 韓国・中国は日本の戦前と同様国定教科書を使っていますが、日本は検定教科書であり、国家の介入は許されないことを、森首相も予算委員会(2001年通常国会)で明確に答弁しました。おそらく韓国・中国もそのことは承知の上で日本に抗議をしているものと推察されます。
 外務省当局の委員会答弁は「内政干渉にはあたらない」、だから抗議しない。百歩譲ってもし内政干渉にあたらないとしても、外交の相互主義にのっとれば、日本もまた相手方の歴史教科書を検討し、ここがおかしいと指摘すべきです。

(4) 悪平等主義の解消を
 

 社会の上層部にいる人にはそれだけの重い責任が求められます。欧米では当然の「ノーブレスオブリージ」が日本では戦後消失してしまいました。
 何でも平等。落ちこぼれを作らないことに主眼が置かれ、エリートを育てることは忘れられました。塾に通って偏差値を上げ、受験テクニックをマスターした者がいい大学に行き、いい職業や地位につく。そんな受験エリートが日本の主要な地位につき、そして日本の至る所でモラルの低下ないし崩壊を起こしています。

 知的レベルはもともと、外見や運動能力などと同様、生まれついて質も量も違うのです。高い人はきちんと伸ばし、その分社会に貢献して重い責任を取ってもらう。でなければ国力は低下し、国は滅びてしまいます。頭脳流出もますます起こっていくでしょう。

(5) 生きる力をつける教育を
   学力ばかりか体力も精神力もひ弱な子どもが増えすぎました。
 これまた金美齢さんの話ですが、「子どもたちにハードルを乗り越える力をつけさせてやるのが教育なのに、日本ではハードルそのものを取り除いてやることが教育のように錯覚しているのでは」と。
 いじめをなくすことは大事ですが、いじめられる子に障害を乗り越えていくだけの力をつけてやることはもっと大事だと思います。親はいつまでも生きてはいません。いずれ社会に出れば子ども自身がハードルを乗り越えていかねばならないのです。
「気に入らなければ変えよう。変えられなければ楽しもう」(ユダヤの格言)という言葉が好きです。他にも、
「人生万事塞翁が馬」
「明日は明日の風が吹く」
「どんなに苦しくても明けない夜はない」
 命まで取られるわけじゃなし。いつも母はそう言っていました。雨が降ったら、「じゃ、休んだら」。勉強をしたらと言われたことは一度もありません。ただピアノはさせたがりましたが。
 天文学的確率で、どの人もこの世に生まれてきます。この世を経験できるだけで大いに感謝すべきだし、できるだけ楽しまねばと思います。そういう前向きの考え方のできるように大人は子どもを育てていくべきだと私は思います。
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