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よく聞かれる質問
 
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1.検事を辞めて国会議員になったのはなぜ?

 一言で言えば、「スカウトです」。
 1998年の参院比例区選挙はいわゆる拘束名簿式で、選挙民が書くのは党名だけでした。つまり、党が上位につけてくれさえすれば無名の者でも当選できたのです。
 自民党比例区候補者の最低必要条件は党員2万人、後援会名簿100万人(2001年の参院比例区選挙では名前を書いてもらう非拘束名簿式に変わり、この条件は撤廃)、ただ総理枠2名についてはその条件が外されていました。
 男性候補は早くから有馬朗人元東大総長と決まっていましたが女性候補はなかなか決まらず、ついに「女性検事」に絞って、当時検事兼作家であった私に白羽の矢が立ったわけです(ちなみに1995年の総理枠2名は釜本邦茂さんと橋本聖子参院議員)。

 突然もたらされた出馬の話はまさに青天の霹靂でした。もちろん固辞しました。ごく普通のサラリーマン家庭に育った私には政治志望は皆無、それが検察の現場にあって尚いっそう、政治=汚ない世界、でした。おまけに当時は、7年ぶりに検察の現場(東京地検公判部室長検事)に戻り、超多忙ながらやり甲斐のある毎日を送っていましたから、検事を辞めるつもりは毛頭なかったのです。
 実際、周囲のほとんどが反対しました。ただ、立法府たる国会に法律家がもっと入るべきだ、皆が政治は汚いと嫌がっていては日本はよくならない、新しい世界を経験するのもいいのでは、なろうと思ってなれるものではないし、と勧めてくれる人も少数ながらいました。

 迷った末、清水の舞台から飛び降りる覚悟で転身したのですが、まさに拘束名簿式のなせる業、選挙運動はまったくせず、支払ったのも党費4,000円のみ。比例順位は11位で、史上初めて検事から直接転身した国会議員が誕生したわけです。

 ちなみにスカウト時の総理は橋本龍太郎氏、幹事長は加藤紘一氏、総務会長は森喜朗氏、政調会長は山崎拓氏でした。橋本首相の後任小渕恵三氏も、開票日にたまたま九段の鮨屋で一緒だった梶山静六氏も、日韓議連会長だった竹下登氏も皆すでに鬼籍に入られました。

 
2.そもそも検事になったのはなぜ?

 任官当時、女性検事は全国で30名足らず(検事総数約1,000名。私は歴代38番目の女性検事でした)、84年松山に赴任したときは「四国初の女性検事」として珍しがられたものです。その後徐々に増えて今や約150名(総数約1,300名)。
 私が司法試験に合格した1980年、合格者約500人中女性が初めて1割に達したとニュースになりましたが、今や1,000人を超える合格者中3割が女性の時代です。アメリカのようにロースクールの半分が女性という時代も遠からず来ることでしょう。

 未だ女性法曹(検事)が極めて珍しい時代にこの道に入った私ですが、親類はじめ周囲に法曹はおらず、選択は多分に偶然の結果でした。
 決意していたのはただ「自分で稼いで食べていくこと」。専業主婦の母は常々「経済的自立なくして精神的自立はない」と言い、娘2人に職業を持たせようとしていました。当初ピアノの道を希望していましたが才能もなく、高校に入った頃に諦めました(ピアノは趣味として、その後も度重なる転勤にもかかわらず、ずっと運んでいます)。
 すると母は医者になることを強く勧めてき、私自身も精神科医には非常に興味があったのですが、当時は血を見ただけで倒れるほど身体が弱く、医学部に進んでもやっていけないだろうと断念しました(司法修習生になって死体解剖の立会いがまるで平気だったときにはショックでした。身体も大人になってから徐々に丈夫になりましたし)。

 そこで当時脚光を浴びていた同時通訳になろうと大阪外語大を目指したのですが、高校3年の正月頃見に行くと、大学紛争の余波かとても汚く、ここに4年通うのかとがっかりしてしまいました。そこでまた方向転換、とりあえず「潰しが利く」法学部に入って、後でゆっくり考えることにしました。
 神戸大学法学部では、アナウンサー、新聞記者、外交官などいろいろと夢を馳せていました。司法試験合格者は年5名程度、受験の気風はほとんどなかったのです。ただ、NHKに行くと「関西弁がきついからよほどコネがないと駄目でしょうね」等々、結局教授の薦めもあって、超難関の司法試験に挑戦を決めたのは4回生になる直前でした。

 以後合格までの苦労話は割愛しますが、志望はずっと弁護士か裁判官。検事は、無辜の人を有罪にするという悪いイメージを大学で叩き込まれていましたし、実生活でも遠い存在でした。
 ところが、検察修習で検察の現場を知り、現物の検事たちを知って、びっくりしました。検事は―警察官も―犯罪者の改善更生を心から願っている。「公益の代表者」として、被疑者にとって不利な証拠ばかりか、有利な証拠まで調べるものはすべて調べるのです。一生懸命修習に励んでいると、尊敬する指導検事から「検事に向いている。なってみないか」と誘われるようになりました。

 加えて、検事の世界は、検察の現場だけではなく、行政官として様々な仕事があることも、根が飽き性の私には魅力でした。イメージに反して自由にものが言えるのびやかな組織でしたから、我が儘な私にも楽しく勤まったのでしょう。生の事件とそこにうごめく生の人間を知り、法廷に立ち会って証人尋問をし、論告求刑するのは、非常にスリリングです。今でもときどきふと懐かしくなります。

 
3.検事と国会議員、どちらが面白いですか?

 どちらも面白いですが、面白さがまったく違いますね。
 ミクロ、すなわち「狭く深く」の司法に対し、立法はマクロ、すなわち「広く浅く」。新聞で言えば、三面が中心ではなく、一面から万遍なくの世界です。歴史教科書問題、外国人の地方参政権問題、教育問題等々、そのどれもが検事のままでいたならば決して関心を抱くこともなかったでしょう。反面、勉強したいこと、しなければならないことが格段に増えたわりには時間がなく、それが辛いといえば辛いですね。

 
4.永田町はどんな所ですか?

 一言でいえば、「魔物が棲む、魑魅魍魎の世界」。いえいえ、実際はそれほどでもありません。きっと恐ろしい人ばかりだろうと身構えていましたが、癖のある人、無能な人もいる代わり、善良な人、有能な人も大勢います。
 ただ、それは本当に「その人」次第なのが普通の組織とは違う所でしょう。自民党はよく「自分党」と言われますが、まさにその通り。党の部会などにしょっちゅう顔を出し、勉強に励んでいる人もいれば、一度も顔を見たことのない人もいます。極論すれば、選挙に通りさえすればいいのですから。政策立案や法案作成など何も出来なくても、その執行段階で役所にものを言い、地元に有利なことさえできればいいのです。
 もちろんそういう人を選ぶのは選挙民であり、およそ国民は自分のレベルに合った政治家しかもてないと言われるのはその通りなのです。

 議員の最大の仕事は「議員であり続けること」。そのために後援会や支持母体の維持が何より優先されます。そのために事務所やスタッフが要り、その経費を捻金することが必要になります(自民党議員では普通、年に1億円程度必要とか)。政治献金を頂いていれば、いざ頼まれれば口利きもしなければならないでしょう。鈴木宗男問題や加藤紘一問題は極端な例だとしても、そのミニ版はどこでも起こる仕組みになっているのです。

 まずは世代交代を。小選挙区に替わってから、現職が「死ぬか引退するか」しなければ新人は出られなくなりました。しかも基盤が個人の後援会ですから後釜には息子など血族を立てるのが順当となり、今や2世・3世議員ばかりです。台湾の李登輝前総統がその著書『台湾の主張』で、これでは国力が弱まると指摘しています。
 自民党から出たいのに出られないからと有為な若者がやむなく野党から出る例もまま見られます。古い体質、権力志向に凝り固まった政治家が中枢部にいるかぎり、政治と金の癒着構造もきっと変わらないでしょう。

 
5.小説を書こうとしたきっかけは?

 物心ついたときからいわゆる文学少女で、小説らしきものは高校生の頃から書いていました。ただいずれ作家にと志したのは23歳の時。
 その年合格するはずだった司法試験に入口の短答式試験で落とされて論文式試験は受けることさえできず、1ヶ月ほど夢遊病者のような生活を送りました。そのときに見えてきたことが「遅くてもいい、汚くてもいい、私は私だけの絵を描こう」。いつか小説を書こう、そう思い立つことで救われました。

 司法試験も見切り、骨を埋めるつもりで翌春、地元の明石市役所に就職しました。ですがつまらなくて翌春辞め、背水の陣で臨んだ短答式試験にその年初めて合格、そのまま論文式試験、口述式試験と通って、合格しました。
 小説は抽出しにたくさん詰めておき、30歳になったら始めようと考えました。あっという間に期限が到来し、仕方なく書き始めましたが、自分でも呆れるくらいに下手。専ら短歌を作ってごまかしていました。約束不履行を引きずったまま35歳になり、やっと『紫陽花の花のごとくに』を書きました。これが横溝正史賞の最終選考に残り、それが弾みになって、次に書いた『恋文』で翌年正賞を頂きました。

 私にはミステリー志向はありません。ただ取材なしで書けるものといえば検察物。となればミステリーが自然だったのです。受賞後ミステリーをたくさん読むようになりましたが、扱う分野が広く面白いジャンルだと思います。

 
6.ペンネーム「松木麗」の由来は?

 「まあきれい」が由来だとよく揶揄されますが、違います。この名前が世に出た後に人に指摘され、本当にびっくりしました。
 初めに「麗」ありき。この漢字には小さな時から惹かれていました。佐々木麗でも良かったのですが、ササキは発音しにくいのでどうせなら変えようと。母方の姓マキノと組み合わせて、マキレイ、マサキレイ、マツキレイ、サノレイ、等々、中でレイとの語呂が綺麗なマツキレイを選びました。
 当時検事だったため勘づかれないようペンネームをつけたのですが、すぐにばれたし、政治家としては本名を売るほうが得策ではあるし、最初から本名でいけばよかったと少し後悔しています。

 
7.今は書いていないのですか?

 書きたいテーマはいくつもあったのですが、書かなくなって久しいです。
 かつて書くことで精神の均衡を保っている面があったのですが、この世界で適応するうちにどうやら繊細だった(?)精神が強靱かつ柔軟になってきたらしいことが一つ。加えて、現実の世界がスリリングすぎて、わざわざ虚構の世界に浸ろうとする意欲が薄れたことが一つ、と自己分析しています。
 今はとにかく勉強がしたい。その上で書きたいことは、今のところ小説ではありません。とはいえ、人は変化します。「絶対」は「いずれ必ず死ぬこと」以外にはなく、いつかまた小説を書きたい自分と向き合っているやもしれません。


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