任官当時、女性検事は全国で30名足らず(検事総数約1,000名。私は歴代38番目の女性検事でした)、84年松山に赴任したときは「四国初の女性検事」として珍しがられたものです。その後徐々に増えて今や約150名(総数約1,300名)。
私が司法試験に合格した1980年、合格者約500人中女性が初めて1割に達したとニュースになりましたが、今や1,000人を超える合格者中3割が女性の時代です。アメリカのようにロースクールの半分が女性という時代も遠からず来ることでしょう。
未だ女性法曹(検事)が極めて珍しい時代にこの道に入った私ですが、親類はじめ周囲に法曹はおらず、選択は多分に偶然の結果でした。
決意していたのはただ「自分で稼いで食べていくこと」。専業主婦の母は常々「経済的自立なくして精神的自立はない」と言い、娘2人に職業を持たせようとしていました。当初ピアノの道を希望していましたが才能もなく、高校に入った頃に諦めました(ピアノは趣味として、その後も度重なる転勤にもかかわらず、ずっと運んでいます)。
すると母は医者になることを強く勧めてき、私自身も精神科医には非常に興味があったのですが、当時は血を見ただけで倒れるほど身体が弱く、医学部に進んでもやっていけないだろうと断念しました(司法修習生になって死体解剖の立会いがまるで平気だったときにはショックでした。身体も大人になってから徐々に丈夫になりましたし)。
そこで当時脚光を浴びていた同時通訳になろうと大阪外語大を目指したのですが、高校3年の正月頃見に行くと、大学紛争の余波かとても汚く、ここに4年通うのかとがっかりしてしまいました。そこでまた方向転換、とりあえず「潰しが利く」法学部に入って、後でゆっくり考えることにしました。
神戸大学法学部では、アナウンサー、新聞記者、外交官などいろいろと夢を馳せていました。司法試験合格者は年5名程度、受験の気風はほとんどなかったのです。ただ、NHKに行くと「関西弁がきついからよほどコネがないと駄目でしょうね」等々、結局教授の薦めもあって、超難関の司法試験に挑戦を決めたのは4回生になる直前でした。
以後合格までの苦労話は割愛しますが、志望はずっと弁護士か裁判官。検事は、無辜の人を有罪にするという悪いイメージを大学で叩き込まれていましたし、実生活でも遠い存在でした。
ところが、検察修習で検察の現場を知り、現物の検事たちを知って、びっくりしました。検事は―警察官も―犯罪者の改善更生を心から願っている。「公益の代表者」として、被疑者にとって不利な証拠ばかりか、有利な証拠まで調べるものはすべて調べるのです。一生懸命修習に励んでいると、尊敬する指導検事から「検事に向いている。なってみないか」と誘われるようになりました。
加えて、検事の世界は、検察の現場だけではなく、行政官として様々な仕事があることも、根が飽き性の私には魅力でした。イメージに反して自由にものが言えるのびやかな組織でしたから、我が儘な私にも楽しく勤まったのでしょう。生の事件とそこにうごめく生の人間を知り、法廷に立ち会って証人尋問をし、論告求刑するのは、非常にスリリングです。今でもときどきふと懐かしくなります。
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