以前からアムネスティなどから批判されており、人権派が中心となって死刑廃止を主張していました。人道的理由(国家による殺人は許されない)、世界の潮流は廃止の方向に進んでいる(先進国で未だに廃止してないのは日本とアメリカの約半分の州だけ)、冤罪の場合に取り返しがつかない、死をもって償うより生きてこそ贖罪すべきだ、死刑に凶悪犯罪の抑止効果はない……等。
加えて、欧州約50か国が加盟する欧州評議会(日本はオブザーバー資格)が日米を強く批判し、オブザーバー資格を奪う可能性を示唆するようになりました。国会では昨年、超党派による「死刑廃止を推進する議員連盟」が設立され(会長:亀井静香)、終身刑導入と死刑制度調査会設置(4年間、死刑執行を停止)法案が提出されました。これが自民党法務部会で初めて審議された2003年7月16日、私は縷々反対意見を述べました。
同年7/22付け朝日新聞に「議連法案、提出『待った』」の見出しで、取り上げられた私の意見はごく一部にすぎません。いわく「残酷な殺人現場に何度も立ち会った。地獄の苦しみを味わった被害者や遺族に死刑以外でどう償えるというのか」。以下に全体の論旨を述べます。
?@欧州の思想的支柱はキリスト教であり、日本の属する仏教社会とは事情が異なる。
キリスト教は「罪を憎んで人を憎まず」、「赦し」の宗教です。人を罰することができるのは神(唯一絶対神)のみ。現世での悪行には必ずや神が審判を下し、死後地獄に落とされて永遠に苦しむのです。
対して、キリスト教国ではない国で死刑を廃止した国は、イスラム国、仏教国はじめほとんどありません。アジアでは韓国が死刑を廃止したそうですが、韓国がアジアでフィリピンに次ぐキリスト教普及国であり、ことにエリート層がほとんどクリスチャンであることはよく知られているところです。
話は変わりますが、私が国会議員になる前の1997年、議員立法として提出された臓器移植法案審議の際にもこの文化の相違が無視された嫌いがあります。キリスト教では人が死ねば魂は直ちに神に召され、肉体は無意味な存在となります。ですから臓器移植には、本人はもちろん家族の承諾も要らないのが一般なのです。遺体を、たとえ遺髪一本でもと探し求めるのはそもそもキリスト教の発想にはありません。輪廻の思想のある仏教だからこそ肉体は健全なまま残る必要があるのです。日本人が欧米人と異なって臓器移植に躊躇するのは、ボランティア精神の欠如故ではなく、そもそも宗教・文化が違う故だというのは大事なポイントだと思います。
?A諸外国では犯人検挙の際の簡易死刑執行(summary execution)がなされている事実を 見逃している。
死刑は野蛮だから断固廃止すべきだと主張するいわゆる先進国でも、逮捕に抵抗する犯人の射殺は容易に行われていることを廃止推進派は看過しています。簡易死刑執行は人権感覚の希薄な発展途上国ではさらに容易に行われており、こうした統計数値を調べようとしたことがありますが、見つかりませんでした。それほど当たり前に行われているからではないかと思っています。
アジア極東犯罪防止研修所に勤務していたとき、先進国・発展途上国を問わず多くの国々の司法関係者と話をした際、日本ではほとんど意識されない刑事司法「コスト」が容易かつ当然に語られるのに驚いたものです。
つまり危険な犯人をその場で殺害してしまえば、将来の危険性は永久に除去され、その後の司法手続きも不要になる。刑務所に収容して税金で養う必要もない(犯行現場にいたのだから犯人性にもまず間違いはないでしょう)。日本のように、警察官自らは負傷をしても犯人は必ず無傷で捕まえることが至上命令であり、かつその後は丁寧に捜査をして実体解明をしない限り、国民の非難を受けるということは彼らの理解を超えたことでした。もちろんその背景には、国民の、司法機関に対する真相解明へのあくなき要求が存在します。神の存在しない日本では真相解明をできるのは司法機関しかないのです。
?B日本は世界有数に刑罰の軽い国である。
日本で人1人殺してどれだけの刑罰を科せられるか?
答えは「平均して懲役7〜8年」(求刑懲役10年。20〜30%ディスカウントと言う とよく分かってもらえました)。
これには先進国発展途上国を問わず、どの人たちも大いに驚いてくれます。執行猶予付きも珍しくないくらいなのですから。
被害者が1人の場合、落ち度ゼロ、どれほど残虐な方法で殺害されても最高で懲役15年です(有期懲役の最高刑)。無期懲役刑(終身刑ではなく、10年経てば仮釈放の対象になる)になるのは強姦、強盗、保険金詐欺、身代金誘拐、放火などがついた殺人に限られます(かつ情状が非常に悪い場合には死刑もありうる)。
死刑になるのはほとんどが被害者2人以上。ただし、単純殺人の場合には3人以上を殺害しなければ無期懲役どまりが普通です。2人の場合には強盗、強姦、保険金詐欺、身代金誘拐などの罪名がついて初めて死刑の対象になってきます。もちろんそのどれもが被害者には落ち度ゼロ、それまで平和な生活を送ってきたのに、ある日突然押し入ってきた強盗犯に虫けらのように惨殺される。そして遺族は、生ある限り、その地獄の苦しみ、無念さから逃れられようはずはありません。
まさに鬼畜の犯行しか死刑にはならない日本で、毎年死刑を言い渡されるのは5人ほどにすぎません(そのほとんどが強盗殺人)。平成13年に10人と多かったのはオウム関連事件のせいではないかと思われます。
廃止推進派の人たちには是非一度、死刑判決(無期懲役刑でもいい)を読んでいただきたいと思います。そのうえで、もし自分自身が、子どもが、伴侶が、親が、こういう目に遭って殺害されたとしてもなお死刑廃止を主張するのか、生きて罪を償ってほしいと願うのか、それを私は心から問いたいと思います。自分は嫌だけど他人の事だから、あるいは自分はよく分からないけれど理念としてはこうあるべきだから、というのは決して許されないことです。
刑場を見学して、殺される人は可哀想、死刑なんて非人道的だと考えるのは至って簡単なことですが、であるならばその人によって殺害された人がどれほど非道な目に遭って死んだのか、その現場なり遺体なりを是非想像してほしいと思うのです。
?C冤罪は「証明」の問題であって、刑罰の種類の問題ではない。
死刑廃止論者に「では、目撃証人がいて、血痕も合致していて、100%真犯人に間違いなければ死刑はいいのか」と問うと、たいてい「ならいい」という答えが返ってきて、驚かされます。
有罪にするに足るべき証拠がなければ罪に問えない――「疑わしきは罰せず」は近代法では自明の理です。ちなみに無罪は「not
guilty」(有罪ではない。つまり有罪の証明に至らなかったこと)であってinnocent(無実)ではありません。ひとり死刑だけではなく、懲役刑であれ罰金であれ、有罪の証明ができなければ無罪としなければならないのは、証明の問題として当然のことなのです。
上記新聞に亀井会長の話として「目撃証言一つとっても絶対間違いないものなどない。そういう見方で刑事手続き全体を見るべきだ」とあるのは私のこの発言を踏まえたものと思われますが、もし本当に、目撃証言が信用できない、有罪かどうかの判断はできない、というのであればそもそも裁判などというものが一切できず、裁判制度そのものを否定することになってしまいます。
?D終身刑は死刑に代わりえない。
死刑は一瞬で終わる、終身刑のほうがより残酷な刑罰であり、凶悪犯罪を犯した人は生き抜いて終生かけて罪を償ってほしい、という言い方をする人もいます。
もちろん中には悔い改めて罪を償う人もいるかもしれません。ですが実際は、精神的金銭的な一切の償いをしないままの加害者が多いのが現実です。娘を惨殺した犯人が生きて同じ空気を吸っている、それだけで耐えられないという遺族は多くいます。犯人が死んだからといって娘が生きて戻ってくるものではないけれど、死んだことによってある種の区切りがつけられ、少しばかりの安らぎが得られるという遺族の気持ちを否定することは、他人ができることではありません。
加えて終身刑は、処遇する側にとっても非常に難しい刑罰です。
処遇というのは本来、更生して社会に戻るためのものであり、であるからこそ収容者も励めるし、処遇側も真摯に取り組むことができるのです。絶望に陥って当然の収容者を処遇側はどう処遇すればいいのでしょうか。人間が必ず持つ自由への希求――それを満たすために脱走の試みが飽くことなく繰り返されるでしょう。その際刑務官を殺しても怖いものはないのです。彼はすでに終身刑の身。死刑がない以上、刑罰はそれ以上悪くなりようがないのです。実際私が話をしたドイツの司法関係者はそう言って嘆いていたし、アメリカでもこの問題はつとに指摘されていることなのです。
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