この週末は3月末以来の、何もない週末だった。で、ありがたいことに、読書三昧。
雑誌は月刊現代、月刊文藝春秋、『選択』その他、書籍は2冊、『法と正義の経済学』(竹内靖雄著)と『江戸の恋』(田中優子著)。
『法と正義の経済学』は、主に刑事司法の分野において、正義(不正がない状態)を回復するための適正なコストを論じたものだ。正義とコスト? 大方の人にはぴんとこないはずだ。なぜなら我が国では正義は絶対的なものと考えられる傾向が強いからだ。だが、諸外国では違う。
アジ研にいたとき、グリコ事件の捜査について、研修生が手を挙げた。「その捜査にはいくらかかったのか」。日本人は一様に面食らった。が、言われてみればなるほど、なのだ。大金を使って、結局、事件は未解決。そんな「無駄」が許されるはずはない。
諸外国では簡単に犯人を射殺する。先進国なのに死刑を廃止しない日本は野蛮だ、と叫んでいる人たちもこの簡易死刑執行(summary
execution)に言及しはしない。統計を探してみたが、見つからない(もしあったら教えてほしい)。それだけ当たり前で、誰も問題意識を持っていないということなのだろう。第一、これほどコストとして合理的なことはないのだ。その場にいたから犯人だ(冤罪のおそれはない)。社会への危険性は永久に除去される。もちろんそのあと調べて裁判にかけて、終身刑にして死ぬまで税金で食べさせるという費用も不要になる。片や、「人権国家」日本では、絶対に犯人は死なせない。たとえ警察官が殉死したとしても、だ。手間暇かけて調べあげ、否認のまま起訴すれば何年もかけて裁判をし、そして刑務所では人道的処遇……ときている。
だが、さすがに今やかなりの人が憤っているはずだ。オウムの裁判に何億円もかけるなんて(主に国選弁護の費用)、なんたる無駄。外国人を捕まえて、通訳をつけて調べて裁判にかけて、刑務所に入れて(衣食住足りたうえ、月額4000円の作業賞与金まで持って帰れるのだ)、なんたる無駄、と。最近よく論じられる、死刑を廃止しての終身刑導入、重罪を犯した精神障害者を施設で長期間治療……そのコストは、果たして「正義」に見合うのだろうか。
ちなみに、末尾記載の「参考文献」に拙著『日本の司法文化』が挙がっている(だから新潮社から恵贈されてきたのだ)。拙著は、この春の大学入試(大阪市大)にも使われていた。名誉なことである。
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