先日乗ったタクシーの運転手が、頻繁にある道路工事に嘆きながら、突然こんな話を始めた。
「先日中国人のカップルを乗せたんですけどね、いや育ちの良さそうな若者でしたけど、私が、日本が中国に多額のODAを供与していると言ったら、そんなこと嘘だって笑うんですよ」
「そりゃそうでしょ。中国は国民に、日本からの金で高速道路や空港を作ってるなんて、教えてないから」と私。
「彼らは言うんですよ。もしそれが本当だとしても貢ぎ物だって。一の弟が北朝鮮、二番目が韓国、三番目が日本。……私は中国が大嫌いですよ」
さもありなん。
瀋陽事件に触れて前にも書いたが、中華思想、つまり中国という国にとって、世界の中心は中国である。周りの国はすべて朝貢(ちょうこう・外国人が来て朝廷に貢ぎ物を差し上げること)してくる弟分の国なのだ。
清末期のあへん戦争も、元はといえば、中国から茶を輸入していたイギリスが代わりに何かを輸出しようしたが中華思想で何も買うものなどないという態度、それであへんを売った(これまたひどすぎる話)のが発端だと言われている。その後、時代は激動し、為政者も思想も変わったのに、中華思想だけは不変、まさにこれぞ教育、伝統、文化……対する日本は、などとつい思ってしまう。
瀋陽事件でもまさにそうだったが、中国が自らの非を認めないのは彼の国の国柄なのである。強弁、恫喝、論理のすり替え……自国(自分)はいつも正しく、悪いのはすべて相手。「敵を知り己を知れば百戦これ危うからず」(孫子)。相手をよく知って臨むこと、それは外交の鉄則でもある。
いじめっ子、いじめられっ子。日本の、とくに中国、韓国に対する弱腰姿勢を見る度に、検事だった私はその構図を思い出してしまう。唯々諾々と言いなりになるからずっと言われっぱなしになる、たかられっぱなしになる。反対に、誇りをもって毅然と対処すれば、二度といじめられることはない、二度と恐喝されることはないのである。
7世紀、聖徳太子は隋に使者を送り、「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。つつがなきや」と言わせたものだ。小さな島国日本が大国中国になぜそんな大口が叩けたのだろうか。その聖徳太子が今の日本を見たらどんなにか嘆くことだろう。誇りのない人は、誇りのない国は、誰からも敬意を払われない。
最近私は、日本の究極の敗因は、経済政策でも何でもなく、教育、つまり人づくりに失敗したことにあると考えるようになった。経済でも何でも動かすのは人だからである。今いちばんしなければならないことは構造改革以前に(ましてこまごました郵政やら道路といったものではなく)教育改革であり、意識改革なのだと思う。
今月10日発売の月刊文藝春秋8月号に佐々淳行さんとの対談が掲載されることは前に書いた。だが、なんとタイトルが「在日中国人極悪犯罪事情」!!!
タイトルは編集側の専権事項だが、この2日に知らされて愕然とし、すぐに訂正を申し入れたが、もう間に合わないとのこと。仕方がないのでホームページ上に釈明を載せることにした(発売に合わせてトップ画面でクリックできるようにする。ホームページというのは本当に便利である)。そこに詳しく書くが、「在日」ではなく「来日」、「極悪」ではなく「凶悪」が正しい。文藝春秋ほどの一流紙ですら、対談内容とは異なるタイトルをつけて人目を引こうとしたことが、私には大きなショックである。
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