10月31日、今が紅葉真っ盛りの札幌に出張した。道連の松尾女性部長が「日本の国家観」について講演をしてほしいと、道全体から300人を越える女性を集めてくれたのだ。
恥を披露するが、国会議員になるまでの私は極東軍事裁判(東京裁判)やA級戦犯なる名称は知っていても、その意味は知らなかった。関心も持たなかった。司法試験受験のために憲法はもちろん一通り勉強したが、それは逐条解説であり、個々の違憲訴訟の検討でしかなかった。ただ私がことさらに無知かつ非常識だったわけではなく、大方の人はきっと私と同じレベルだったのだろうと思う。
古今東西の戦勝国がどこもそうであったように、GHQもまた日本が二度と戦争など起こさないよう徹底的に叩きつぶそうとしたのである。その1つが東京裁判である。
そもそも国際紛争を処理するための戦争は国際法上認められていたのであり(ただし「国連憲章」はこれを排除している)、故に戦勝国が敗戦国を裁く裁判はありえなかったのに、事後法を作ってまでそれを敢行したのが東京裁判(かつニュールンベルク裁判)だったのである。
1945年8月、米英仏ソは「ロンドン憲章」に合意し、国際法上これまで戦争犯罪とされていた「民間人や捕虜の虐待・殺害、略奪、軍事上不必要な都市破壊など」に加えて、「平和に対する罪(侵略戦争を共謀・遂行した罪)」及び「人道に対する罪(政治的または宗教的、人種的理由に基づく迫害行為」を初導入したのである。もちろん事後法は近代法が厳に禁止するものであり、それが故に東京裁判に関わったインドのパール判事など明確に反対の意を表明したのである。11人の判事全員が連合国側であり、敗戦国や中立国出身はゼロ、加えて国際法とは畑違いの素人がほとんどを占めるというお粗末な構成でもあった。
これが復讐ないし見せしめの裁判であったことは、その日付をもってしても知られる。「平和に対する罪」(A級)により、28人が昭和21年4月29日(昭和天皇誕生日)に起訴され、うち判決前の死亡者などを除く25人全員に有罪の言渡しが行われ、東条英機など7人が同23年12月23日(今上天皇誕生日)、絞首刑となった。
ちなみに「通例の戦争犯罪」(B級)では東京外の内地及び外地で5000人以上が裁かれ、約1000人が処刑された。ちなみにアメリカが日本の民間人を狙った東京大空襲・原爆投下は明らかなB級戦犯だが、勝者であるが故に不問とされたのである。
憲法はGHQがわずか1週間で作ったものである。もともとが英文だから分かりにくいし、急いで作ったものだから不整合な部分も結構ある。憲法はその国の「国柄」を示すものなのに、日本の歴史や伝統文化への言及はいっさいなく、「天皇」を除けばどこの新興国家にもっていっても通じるものである。
それを後生大事に60年近くもの間ただの一度の改正すらしていない。当然だが「知る権利」も「環境」への言及もなく、内容がもはや相当の時代遅れであるのはもちろん、実際に世界で最も古い憲法の1つとなってしまった。
ちなみに少年法もまた、日本の法体系とはまるで異質なものをGHQが作ったのである。
教育基本法のせいばかりではないだろうが、教育現場では、権利重視、公の軽視、縦関係の崩壊、そして国家観を欠いた教育がまかり通ってきた。国歌・国旗の尊重はどこの国でも最初に教えることなのに、である。
その結果、日本は毅然とした態度をとれない国になってしまった、そう思うのは私だけではあるまい。最近いろいろな場面で日本がなめられている、そんな思いをすることが実に多い。
その夜は札幌に泊まり、翌11月2日は京都に出張した(近畿女性ブロック会議)。昨3日は3週間ぶりの休日で、掃除や片づけ、ツンドク本を読むことに費やした。
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