議員活動などメッセージその他TOP画面へ
議員活動党務活動個人的な活動最近思うこと
プロフィール

最近思うこと
(随時更新)
− 今までの原稿を読む −
Vol.80 『刑務所の王』を読んで  2003.8.25(月) 記 

 19日大阪、20日尾道、21日神戸・大阪、22日東京、23日横浜、24日滋賀……連日暑い。でもクーラーが嫌いなので、家ではまだつけたことがない。

 車中、文庫本をいくつか。『刑務所の王』(井口俊英著 文春文庫)が出色である。

 著者は、大和事件ニューヨーク支店に勤務中、巨額損失事件を引き起こして米司法当局に逮捕された人物だ。獄中事件を綴った『告白』がベストセラーになり、続いて、獄中で知り合った「刑務所の王」ジョージ・ハープをノンフィクションにした。ディテールにこだわった描写力には舌を巻く。

 よく聞くことだが、実際、アメリカの刑務所では刑務官の収容者に対する、あるいは収容者間の暴力・いじめは日常茶飯事である。収容者の平常心を保つため薬物使用は黙認され、薬物取引のシンジケートが組織されもする。その創始者の一人ハープにとって、刑務所はいたって住みやすい社会である。無法地帯だからこそ「力の強い者が勝つ」のである。

フットボールの高校スターとして将来を嘱望されていたハープは(日本では起訴猶予になるような)些細な事件を起こして17歳で受刑者となってしまう。出所後知り合って結婚した最愛のバーバラと共に暮らすことを切望しながら、ハープは娑婆ではもはや生きていけない。娑婆ではただの負け犬として扱われるからだ。日本のような保護司制度はなく、仮釈放後自ら職を探す。職歴も資格もない中年男に一体どんな職があるだろう。またもや銀行強盗や薬物取引に戻っていくのが必定なのである。

 終身刑受刑者が脱走しても、殺人さえ起こさなければ死刑にはならない。銀行強盗など何でもやり放題である。あるいは死刑が廃止されたところでは、たとえ人を殺してもそれ以上の刑罰を受けることはない。従って、他の受刑者を殺す。刑務官を殺す。やりたい放題なのである。

 実際アメリカではそういう事態が普通に起こっていることをこの本は教えてくれる。死刑を廃止して代わりに終身刑を、と主張する人たちは日本ではそういう「無法」は起こりえないと、何を根拠に信じるのだろうか。

 

Vol.79 生きていてこそナンボのもの 2003.8.16(土) 記   

 終戦記念日の昨日、激しい雨の降る中、日本武道館での戦没者追悼式に初めて参列した(その前に1つ、公式行事に参列)。国会議員6年目にして初めて参列したのは、振り返ってこの時期、帰省その他で東京にいないことが多かったからだ。

 家に戻ると、閣僚4人が靖国神社に参拝したとテレビが繰り返して流している。その前提に、これは許し難いことだとの一面的な認識がある。報道者はどれだけ東京裁判や当時の歴史を分かっているだろうか。報道姿勢もまた国を大きく誤らせてきた元だと、改めて苦々しい。

 私は昭和30年、父の里広島市で生まれた。8人兄弟の長男である父は陸軍中尉になり、特攻隊を志願したがその前に終戦になった。被爆の日、家族を必死で捜し回ったが、まだ学生だった妹弟3人は死亡。原爆記念館を見るまでもなく、まさにそれは地獄絵だったのだ。被爆2世の白血病が騒がれ私も若くして死ぬのではと怯えたのも今は昔、いつの間にか半世紀近くを長らえた。母方の血を引いてきっと長生きするだろうと思う。

 人間の最大の仕事は生きることである。生きていてこそナンボのもの。だから私は、その命を不条理に奪う犯行を決して許せない。戦争も決して起こしてはならないと改めて思う。

 いい夏休みだった。涼しいことも手伝って、いろいろなことができた。友人を訪ねて塩竃にも行けたし、たまった書類もほぼ整理できた。本当にここはうっかりしているとすぐに書類がたまるのだ(法曹出身の某代議士は会館自室にうず高く埋み上げていて、美的感覚とはほど遠い)。ツンドク本も大方読了。いつもはしないピアノも練習した。この下旬、某県連主催で私の「トークとピアノの夕」が催されるからだ(場所はホテルインタコンチネンタル東京湾ベイ、緊張して当然である)。

 加えて、「少年事件と少年法」をQ&A方式で全面改訂した。きっかけは、長崎の12歳凶行に関して取材及び周囲から様々な質問を受けたことだ。法律家には当たり前のことが素人には決して当たり前でないと知らされた。我ながらいい出来なので(?)是非読んでいただきたいと思う。

 

Vol.78 大衆迎合型政治 2003.8.7(木) 記   

全国研修会(7.25-7.27) 8月に入りようやく梅雨が明け(たかどうかは不明のまま)、と同時に猛暑到来である。

 議員はおおむね選挙区に散り、会館はひっそりと静まり返っている。実際、彼らは大変だ。会期中も週末は必ず選挙区に戻り、数多の行事に出席する。東京でも陳情は引きも切らず、時に上京してくる後援会ツアの面倒も見なければならぬ。しかし、ここに不思議なことがある。それほどに忙しいのなら、なぜ頻繁にスポーツクラブに通えるのか。オペラをがんがん聞けるのか(1曲通して聞くだけで2時間はかかる)。飲んでカラオケを楽しめるのか。ましてや女と会えるのか。

 実は、小泉首相秘書官、飯島勲氏が著しているとおり、(多くの)政治家は忙しくなんかないのである。世間で忙しいと思われているのを幸い、ちょっと別の会合があるからとすぐに抜け、実は帰って寝ている(女と会う?)なんて、ざら。昼も本会議や委員会を欠席し(多いのは、頭だけ出てあと退席というパタン)、別のことをするのである。忙しさでいえばよほど、官僚や猛烈サラリーマンのほうが忙しいことは明らかである。

政治家の仕事の8割は「政治家であり続けること」だそうである。実態を見て、納得。だが、ちょっと待ってほしい。「当選」とは世間で言えば「資格」を得ただけであり、その上で何をするかが問われるべきことなのだ。そして、選挙活動ではない真の意味の政治活動をしようと思えば、暇などあろうはずはない。

 まずは勉強すべきことが質量共に山ほどある。暇があるのはこうした地道な勉強をしないからである。俺は頭がいいから、要領がいいから、もうよく分かっているからと勝手に思いこみ、本も書類も読まない。こうした人ほど官僚の説明を聞き、作成ペーパーを斜め読みしただけで十二分に分かった気になるものである。だが、これはいいとこ「情報」であって「知識」ではない。もし幸いそこだけは間違ってはいないとしても、体系として会得されたものではないから底の浅さがすぐに露呈する。しかし正面切っては誰も正さず、こうして多くの「裸の王様」が出来上がっていく。

 民主主義とは究極、多数決の論理である。しかし、多数が賢い、過(あやま)たないというのは幻想にすぎない。ここに衆愚政治あるいは大衆迎合型政治の生まれる本質がある。

 

Vol.77 やっと閉会 2003.7.28(月) 記  

  1月に始まった通常国会が今日、やっと閉会する。振り返る間もないほど慌ただしかったから、しばらくゆっくりし、じっくり勉強もして、秋からに備えたいと思う。

法務委員会(7.22) 昨日までの1週間はことに大変だった。イラク復興支援法案に絡んで24(木)・25(金)と、参院本会議は夜中まで開催。加えて25〜27(日)は4年ぶりの自民党女性局青年局全国研修会だった。国会の関係で初日スケジュールが乱れ、冷や冷やしたが、党歌歌唱指導に始まり、挨拶、ピアノ伴奏(国歌・党歌)、若手議員による弁論大会への参加等々、終始積極的に参加、出席者約900名にも非常に好評で、女性局長として有終の美を飾れたと思う。
 
 そんな合間を縫って「死刑廃止には反対」の大論文(?)を脱稿できたエネルギーは一手紙を貰ったことによる。いわく「7/22付け朝日新聞にて死刑制度存置に関する貴女のお考えと強硬なご発言を知りまして大変ショックを受けました。このような時代遅れの頭の方が参議院におられるとは信じがたい程で、国際関係の場であれば国辱に類する(ママ)とさえ思います。拙筆の小文ご覧下さり、貴女ご自身のお言葉を頂ければ幸いと存じ上げます」。

 その「拙文」はお世辞にも論理的とは言い難く、残念ながらまとめる頭を持ち合わせない。少し抜き出すと、「死刑は……人類史の趨勢に沿い、それが廃止の方向に向かっていることは否めない。それだけに凶悪、悪質な犯罪の続出という現象にさいして「こいつらは死刑にすべきだ」という思いを抱いたり、発言することは厳に慎みたい。それは「殺してしまえ」と同義だからである。」「日本は憲法により戦争を放棄した。だが死刑制度は存続させている。この矛盾がまかり通るとき……」「終身刑は、死刑で死にたいなどと言う人にとって、その命を決して奪わない極めつけの刑となる」……。
 
 当然のことながら、死刑存置・廃止と「時代遅れ」云々は無関係である。イスラム国の多くは未だに見せしめのために公然と死刑を執行し、仏教国の多くは「因果応報」思想によって死刑を支持する。そもそも肉親を奪われた人間が犯罪者に抱く報復感情は古今東西、決して変わることはない。人間はそれほど普遍であるからこそ文学・哲学・宗教が存在するのである。

�ロ�サ�ン�セ�゙�ル�ス�タ�イ�ム�ス�゙取材(7.24) この人は死刑執行人に同情を寄せているらしい。「被害者代表がたすき鉢巻きで仇討ちをするのでもない」、では敵討ちならば許されるのか。私人の敵討ちの権利を近代法は取り上げ、国家の専権とした事実をこの人はどうやら知らないらしい。残酷なことはいけないと言いながら死刑より残酷な終身刑を導入せよというのもまた論理破綻であろう。その「拙文」の主である某女子大の名誉教授は、我が子、妻、親、あるいは教え子が何の落ち度もないのにただ金のため行きずりに惨殺され、あるいは強姦され、死体を切り刻まれ、河に捨てられてもなお、死刑は要らないと言うのだろうか。答えはたぶんノーだと思う。ただ単に人の不幸を自らのものとする想像力ないし思いやりが欠如しているにすぎない故だと私は思う。そんな人に教えられた学生は気の毒としか言いようがない。

 この件ではなんとロスアンジェルスタイムズから取材もされた。論点以外に日本の刑事司法に関してよく提起される問題を質問され、誤解を解く任に恵まれた。この点についても別稿でいずれまとめてみたいと思っている。

Vol.76 憂うべき現状 2003.7.17(木) 記   

法務委員会(7.15) 昨日、法務部会で「死刑廃止を推進する議員連盟」(会長 亀井静香)提出の「終身刑導入及び死刑制度調査会設置等に関する法律案」が審議された。議員連盟の会員として前に並んだのは全員(!)同会長の派閥の面々だ。実は私自身、たまたま故あってこの派閥に所属しているのだが、のっけからとうとうと死刑廃止は絶対反対の持論を展開した。

 同じ立場は保岡氏(元法務大臣。元裁判官)ただ一人、というより出席者の少ないことといったら。例外的夫婦別姓のときとはまさに対照的だ。人の命がかかっているのに(もっとも私の場合は「殺された人」の方の命だが)!! 持論についてはいずれホームページの別枠で縷々述べたいと思っている。

 レイプ容認発言のO氏、罪滅ぼしで(?)女性の権利保護法案を作りたいという。その趣旨や良し、だが刑法のイロハさえ知らないことに改めて驚愕させられた。これがもし一般人であれば驚きはしないだろう。だが仮にも国会議員である。立法府の一員が法律の基本さえ知らないのは車の操縦法を知らずに運転するのと同義ではないか。

 最近相次ぐ党幹部諸氏のセクハラ発言に対し、野党女性議員は抗議し、野田聖子氏は朝日新聞に批判を投稿している。私が今もって静観しているのは、怒っていないからでも呆れていないからでもなく、個別の発言には驚かないほどすでにその体質そのものに絶望しているからだ。O議員の発言直後マイクを向けられ、何も言わずに笑っていた女性議員を良しとするような風潮が、ここにはたしかに存在する。国際潮流からはもちろんのこと、国内の普通の感覚からさえも程遠いところに我々はいるのである。

 今日午後は所属弁護士会の倫理研修を受講する。国会議員であるが故にあらゆる義務を免除されてきたが、これに限っては一切の例外を認めないという。設問にはすでに回答を送ったが、常識さえあれば簡単に分かることばかり。だが最近、常識の分からない法曹が増え、であるが故にこうした研修を実施しなければならなくなったという。その憂うべき現状はすべてに言えることである。

 

Vol.75 「引き際の美学」 2003.7.11(金) 記  

 報道で予想がついていたが、埼玉県知事(77歳)の娘が逮捕された。

 知事の話は何度か聞く機会があった。「皆さん、知事というのは絶大な権限があるんですよ。首相よりも大きいんじゃないですか。7〜8000もの許認可権があるんですからね」。「死ぬまで(知事を)辞めない」が最近では「死んでも辞めない」になり、来年4選目への出馬は既定事実になっていた。権力の場に居続けることはそれだけで大きな弊害を生む。

 永田町にないものは多いが、その最大のものは「引き際の美学」ではないか。最近つくづくそう思うようになった。定年制を設けてほしい、とあちこちで言われる。理想としては個々の選良が自ら潔く勇退し後進に道を譲ってくれればいいのだが(その際身内ではなく予備選挙をやるべきなのはもちろんだ)、実際にはそうする人が極めて少ない以上、定年制も仕方がないと思う。

 一般的に、年を取るほど視野が狭く、考え方が主観的になりやすいという。長い間権力の座にあればなおさらのこと。周りの世辞追従をまともに受け取り、「裸の王様」になっていく。自分がいなくてはみなが困る、この世は回らないと思い込んでくるのだ。だが、実際はそんなことはない。たとえ一国のリーダーであれ、いなくなってもなんとかなる。それほど人間の存在などちっぽけなものだ。だからこそ宗教や哲学が要るのである。そうした真理を弁えることが本当の知恵であり、経験を積んだ人間が後輩に受け継いでいくべきものなのだ。

 権力中枢からして規律が乱れ美学がないのだから、日本全国津々浦々、それに見習うのは当然という気がしてくる。参院議長といえば、現職が昨年春、秘書の刑事事件で引責辞任した。そして今度は前参院議長に絡む事件だ。「良識の府」はどこにいったのか。政治と金。今やもう誰もが当たり前と考え、驚きもしなくなった。これが凶悪事件の多発と無関係であるはずはない。

 昨日の法務委員会。朝一番、民主党議員に12歳の凶行を突然(?)尋ねられて大臣、「少年法の適用がない年齢だが、少年法を改正することは考えていない」趣旨の答弁をしたが、「刑法」に定める刑事責任年齢に達していないから刑事処分はできない、のが正解であり、少年法改正云々の問題ではない。意外にマスコミはじめこの基本的知識を欠いたコメントが多いのに気づかされる。先日テレビを見ていたら、片山総務大臣を評していわく「現内閣で珍しく頭のいい人。官僚のペーパーが要らない」。マスコミもちゃんと見ているのだと妙に感心した。一内閣一閣僚の理念に異論はないが、であるならば適材適所、随所に真のプロフェッショナルを充ててもらわねば、国を誤る元になる。

 

Vol.74 今回の少年事件について 2003.7.10(木) 記  

 法務委員会(7.8)一昔前は何年かに一度しか起こらなかった残虐非道な事件が最近はしょっちゅう起こる。悲しいことには馴らされ、それほど驚かなくもなった……。

 だが、今回は本当にショックだ。4歳男児を裸にして突き落としたのが12歳!! 

 どんな少年なのか、どんな家庭でどんな躾をされたのか、前兆はなかったのか……矢継ぎ早に知りたいことがある。だが、少年法に保護されて、何も明らかにはされないだろう。もちろん刑罰もなんら科されない。最愛の我が子をこんな形で未来永劫に奪われて、ただでさえ地獄に突き落とされている御遺族のお気持ちを想像するだけで、胸が苦しくなってくる。被害者には何の落ち度もないのだ。

「少年法」の扱う「少年」には3種ある。
 ?@犯罪少年(14歳〜20歳未満)
 ?A触法少年(14歳未満で刑罰法令に触れる行為をした少年)
 ?B虞犯少年

 14歳の凶行で日本中を震撼させた少年Aはもちろん?@である。長崎のこの少年は?A。刑事責任年齢に達していないので刑事処分を科されることはない。しかも少年院法が少年院入院対象者を14歳以上としているため、少年院に送致されることもない。児童自立支援施設(以前は教護院と言った)という、厚生労働省管轄の福祉施設に送致されるだけだ。送致された所も困るにちがいない。もともとこんな残虐な行為を犯した者を対象にする施設ではないのだから。

 この事件はバルガー事件を想起させる。93年、イギリスで2歳の男児(被害者の名前がバルガー)が惨殺された事件の犯人は共に10歳の男児2人。イギリスのみならず世界中に衝撃を与えた事件である。イギリスの刑事責任年齢は10歳(かつて7歳だったのを8歳に引き上げ、さらに引き上げたのだ)、故に犯人は共に「無期刑」(死刑は廃止だから最高刑)に処せられた。ただ、その後減刑されて釈放となり、名前を変えて住んでいるとのことだ。現在23歳のはず。

 日本の刑事責任年齢が14歳と、結構高めなのは、明治時代、刑法を倣ったドイツがそうだったからだ。ちなみにフランスは13歳。アフリカやアジアの諸外国で「7歳」が多いのは、かつての宗主国イギリスに倣ったからである。実際、7歳にもなれば人を殺しちゃいけない、盗んじゃいけない、なんてことは知っている。だから、この年齢を何歳にするかは大いに政策的なものである。

 刑事責任年齢を低めることが直ちに解決に結びつくとは思えない。こんな少年を作るのは親であり社会であるからだ。きっとその親もまたどこかを病んでいるのだろうと思われる。非行も犯罪も社会を映す鏡である。これだけ治安が悪くなり、残虐な事件が頻発するのは、社会のたがが緩み、みながおしなべて心が荒んだ証左だろう。日本丸はどこに進もうとしているのか。考えることは多い。

 一晩でアクセス数が200件を超えたのはこの事件が理由だと思う。

 

Vol.73 プロフェッショナルであるべきだ 2003.7.4(金) 記   

法務委員会(7.4) ちょっと前に新年を迎えたと思ったら(今年はペリー来航150年)、早や半分が過ぎ、そしてもう4日目。本当に、早い。

 延長国会(〜7/28)の主な争点はイラク復興支援法案だが、法務委員会の今国会予定法案はまだほとんどが審議未了である。名古屋刑務所問題が尾を引き、野党側は大臣辞任を要求、通常であれば予算案通過後の4月冒頭に行われる大臣所信表明も未だ、という異例の事態なのだ。

 一種の妥協案として(国会ではままある)、内閣府所管の司法制度改革関連法案の審議を優先させることとなり、昨日、裁判迅速化法案・民事訴訟法改正法案・人事訴訟法案の3法案が一括審議された。自民党の質疑者は例によって私、来週火曜の参考人質疑も私が担当する。法務委員会係属案件はおおむね極めて専門的であり、法律家でなければ質疑も非常に難しい。

 自民党は、参院にも、また女性議員にも法律家がいない。立法府なのにこれではいけないと思うのだが、なにせ選挙に当選することは超難関の関所である。金もいるし人も動かさねばならない。その大変さを克服してまで政治家になりたいか、なり続けたいかとなれば……う〜ん。その結果、バッジなくして「ただの人」こそがバッジに固執し、そのためには何だってする……になりかねないのが現状の選挙制度である。「国民の代表者」を選ぶ選挙によって、一般国民と同レベル、あるいはもっと低いレベルばかりが選ばれるようでは国の衰退は必定である。

 国会議員もまたプロフェッショナルであるべきだ。法律、外交、経済、その他分野は豊富にある。官僚に太刀打ちできる人が「国民の代表者」にならずして、一体この国はどうなるのだろうか。

 

Vol.72 発言には十分に気をつけて 2003.6.27(金) 記 

 今日正午、総務会を出たところでとたんマイクを突きつけられた。一瞬戸惑ったが、朝刊に載った『(集団暴行は)元気があっていい』発言(自民党O議員)についてのコメントだった。「事実関係はよく分からないのですが、集団暴行といえば強姦であり輪姦でしょう。いかなる意味においても積極的な評価をするのはいかがなものか」と答えた。

 同議員は例の夫婦別姓法案についても終始反対なのだが、その理由はよく分からない。「法務省の陰謀」(?)とか「一事不再理(それは刑事事件の話ですよ!)」……。つまりその思考回路がよく分からないから、今回の件についてもあるいは本当に「元気があっていい」と考えているのやもしれぬ。と思えるほど、ここには実に多種多様な人たちが存在している。

 いずれにしても国民の代表者たるもの、発言には十分に気をつけてもらいたいものだ。

 ところで今日の参院本会議冒頭で取り扱ったのは、共産党F議員の辞職案件だった。報道によれば理由は「セクハラ」。真相は分からない。その背後に同党の権力闘争が絡んでいるとの噂も漏れ聞くが、いずれにしても公党が公認して当選した議員の進退に関することである以上、国民に対して理由を明らかにする責務があるはずだ。

 

Vol.71 日本人の素晴らしさ 2003.6.24(火) 記   

  福岡の一家4人殺害事件――どれほど恨みがあるにせよ、なぜ何の罪もない子どもたちまで殺すのだろうか。世田谷の一家4人殺害事件が起きて2年半、犯人は未だに捕まらない。治安がどんどん悪くなり、犯罪も凄惨さを極め、ありうべきことだがここにもまたアメリカ化が見える。

よくグローバリズムという。世界の水準。司法制度改革もすべてその掛け声の下、進んできた。だが、待ってほしい。グローバリズムとは結局、アメリカ主義のことである。世界は広い。もとより価値観は多々存在する。大きく見ても、イスラムと仏教とキリスト教と、それぞれ価値観は異なるのだ。それをただアメリカ主義をよしとし、他を間違っているとする。あろうことか敗戦後アメリカの属国のようになってしまった日本人自身がまたそれをよしとしている風がある。

 日本はムラ社会なのだ。みな互いを思いやり、手を取り合って進んでいくのが日本の古来の伝統なのである。終身雇用制しかり、年功序列しかり。競争社会は弱者切り捨ての社会である。勝ち組と負け組。それで果たしてみな幸せなのか、そういう根本の問題なのだ。

 ということなどを、先週木曜静岡の講演で、金曜は千葉の講演で、そして昨夜は某会合の挨拶で述べた。日本人自身が日本人の素晴らしさを忘れてしまうこと、それが何より恐ろしい。

 2週間来ひいていた風邪がどうやら今日辺りだいぶ治まったようだ。健康を害すとそのありがたみがよく分かる。自身が健康でなければ人をも思いやることができない。そろそろ無理は利かなくないことを留意しておかねばならないと思う。


 

TOPページへ  /    /  

Copyright (C) 2002 佐々木知子事務所 all right reserved.
info@tomokosasaki.jp